五年後からのトラベラー
2059年5月x日、東京大学・本郷キャンパス。
歴史ある安田講堂の影が伸びるレンガ造りの通路には、学生たちが賑やかに行き交っている。
「ねえ、青木くん、そろそろ行こ。次のコマ、めちゃくちゃ行きたがってた特別講座だよ」
同学年の女子学生が、ノートPCを閉じながら声をかけた。
「はい。このレポート用の集計だけ終わらせてから追いかけるので、先に行っててください」
さっきの授業の課題を友人にレクチャしている青木一行は、タブレット端末を操りながら顔を上げた。
飛び級で年下扱いされるのにも、とうに慣れっこだ。
「前の方の席、とっといたげよっか?」
「いや、それは先に来ていた人たちに悪いんで……大丈夫です、どんな席、いや立ち見だろうと絶対拝聴しますから」
育ちの良さと生真面目さが滲む笑顔で応え、青木は再び画面に目を落とした。が、ふと視界の端を、異質な「色彩」が横切る。
それを追いかけるように長身が立ち上がった。
「……あ、れ?」
学生たちに紛れて、一人だけ時間の流れが止まっているようなシルエットがあった。
綺麗な身体の線にフィットしたダークスーツ。風に揺れる柔らかい亜麻色の髪、透き通るほど白い肌。
チャラチャラした流行とは無縁の、あまりに気高く完成されたその立ち姿。
「えっ?ま……薪……剛さんでは……!?」
青木の心臓が、肋骨を叩くほど跳ねた。
第九の若き天才警視正、次世代捜査の革命児。警察庁の広報誌や専門誌で、穴が開くほど見つめてきた憧れのひとなのだ。
「え? 何、青木くん? 今日の講師は鈴木捜査員でしょ。あの人すごくイケメンで……あれ?」
同級生が振り返ったときには、もう青木の姿はそこにはなかった。
かつては自分も過ごしていたキャンパスだ。
薪は迷いのない足取りで、特別講義の催されているガラス棟を抜けていく。
青木は呼吸を整えるのも忘れ、一定の距離を保ちながらその後を追った。
(なぜ、薪室長がここに? 副室長の講義を視察に……? てか、さっき一瞬、身体が輪郭ごと透けて見えたような……)
期待と疑念が混ざり合い、青木の尾行は次第に慎重さを欠いていく。
中庭へと続く静かな回廊に差し掛かったその時、前を歩いていた影が不意に足を止めた。
「おい。そこのデカくて目立つ男子学生」
冷徹な、けれど耳を打つような心地よいテノール。
薪は振り返りもせず、背後を付けてきていた青木を、言葉の刃で一刀両断した。
「いつまで僕に付いてくるつもりかな。第九志望者なら、もう少しマシな尾行を覚えたらどうだ、青木一行君」
憧れの人にフルネームを呼ばれた青木は、まるで雷に打たれたように硬直した。
(……今、薪剛さんが俺の名前を呼んだ? わけないよな、憧れのあまり幻聴か??)
ゆっくりと振り返った薪の瞳は、未来を知る者の哀しさと、抗いようのない慈しみを含んで、20歳の青木を真っ直ぐに見つめた。
「特別講義の時間だぞ。君の憧れの“MRI捜査員”の有難い話を聞かなくていいのかな」
「は、拝聴したいのは山々なのですが、それ以上に……今、ここであなたとお話しできるチャンスを逃したくなくてっ」
「……」
黙って歩き始める薪と、忠犬のように夢中でついてくる長身の青年。
「あの、どうしても、お伺いしたいことがあるんです。10分……いや、5分だけでいいので、お時間をいただけませんか?」
まるで一生に一度の賭けに出るギャンブラーのような熱量の問いかけに、薪は自身の視界に浮かぶカウントダウンを確認しながら答える。
「あと……8分25秒なら、付き合おう」
「あ、ありがとうございます!」
赤煉瓦の回廊を抜けた二人は、旧三四郎池を望む「育徳園」へと辿り着いていた。
生い茂る木々に囲まれたベンチに、薪が腰を下ろす。青木も勢いよく隣に座ったが、あまりに詰めすぎた距離に狼狽し、拳を膝の上で固く握りしめた。
「時間がない。質問は?」
「あ、はい。あの、死者の脳を覗くこと……って、恐ろしくないのでしょうか?」
真っ白になった頭を振り絞ったにしては、あまりに単純な質問。
それを青木は震える声で問いかけた。
「恐くない、と言えば嘘になるな。幻覚、妄想、狂気や苦しみ……あちら側には、普通に生きていればお目にかかれない地獄が幾らでもあるから」
「で、では……MRI捜査員として、最も過酷な地獄に直面してその闇に呑まれそうになった時、あなたを正常なこちら側の世界に繋ぎ止めるものは、何ですか?」
技術や展望論ではない。純朴な青年の口をついて出たのは、魂の在り方への問いだった。
薪は一瞬、目を見開いて目の前の青年を見つめた。将来、この青年が自分の部下となり、真っ直ぐな献身によって見事に上司を救済することになるなんて、当の本人は知る由もない。
「……光、かな」
薪は、遠い未来——そして、すぐ隣にいるこの若者の瞳を見据えて、静かに言葉を紡ぐ。
「死者の脳が見せるどんな地獄も、唯一、生きている人間だけが放つ、愚かなほどに真っ直ぐな光には勝てない。どちら側にも分け隔てなく差し込んでくる光が、僕を救うんだ。……たとえ僕がそれを拒絶し、罵ったとしても、決して見捨てない……裏切らない……」
青木は言葉を失い、ただその葛藤に満ちた美しい横顔を見つめていた。いつかこの人の隣に立つ、そんな未来を予感させるような、甘い眩暈に襲われながら。
そして、薪がここへ降り立ってから早くも5分が経過したようだ。
薪の脳内で、帰還用の『擬似パルス』が微かに鳴動した。が、送られた電気信号は、目の前の青木が放つ揺るぎない存在感に中和されるかのように、霧散して消えていく。
(……エラー? 帰還シーケンスが、作動しない……?)
パルスが効かないのではない。おそらく青木と対峙している自分の潜在意識が、今いるこの世界を「正」として、手放すことを拒む脳波がそれを飲み込んでしまったのかもしれない。
視界の端で、無情に減り続けるデジタルカウントダウンの数字。
――残された時間は、あと3分もない。
薪の背筋に、初めて冷たい戦慄が走った。
歴史ある安田講堂の影が伸びるレンガ造りの通路には、学生たちが賑やかに行き交っている。
「ねえ、青木くん、そろそろ行こ。次のコマ、めちゃくちゃ行きたがってた特別講座だよ」
同学年の女子学生が、ノートPCを閉じながら声をかけた。
「はい。このレポート用の集計だけ終わらせてから追いかけるので、先に行っててください」
さっきの授業の課題を友人にレクチャしている青木一行は、タブレット端末を操りながら顔を上げた。
飛び級で年下扱いされるのにも、とうに慣れっこだ。
「前の方の席、とっといたげよっか?」
「いや、それは先に来ていた人たちに悪いんで……大丈夫です、どんな席、いや立ち見だろうと絶対拝聴しますから」
育ちの良さと生真面目さが滲む笑顔で応え、青木は再び画面に目を落とした。が、ふと視界の端を、異質な「色彩」が横切る。
それを追いかけるように長身が立ち上がった。
「……あ、れ?」
学生たちに紛れて、一人だけ時間の流れが止まっているようなシルエットがあった。
綺麗な身体の線にフィットしたダークスーツ。風に揺れる柔らかい亜麻色の髪、透き通るほど白い肌。
チャラチャラした流行とは無縁の、あまりに気高く完成されたその立ち姿。
「えっ?ま……薪……剛さんでは……!?」
青木の心臓が、肋骨を叩くほど跳ねた。
第九の若き天才警視正、次世代捜査の革命児。警察庁の広報誌や専門誌で、穴が開くほど見つめてきた憧れのひとなのだ。
「え? 何、青木くん? 今日の講師は鈴木捜査員でしょ。あの人すごくイケメンで……あれ?」
同級生が振り返ったときには、もう青木の姿はそこにはなかった。
かつては自分も過ごしていたキャンパスだ。
薪は迷いのない足取りで、特別講義の催されているガラス棟を抜けていく。
青木は呼吸を整えるのも忘れ、一定の距離を保ちながらその後を追った。
(なぜ、薪室長がここに? 副室長の講義を視察に……? てか、さっき一瞬、身体が輪郭ごと透けて見えたような……)
期待と疑念が混ざり合い、青木の尾行は次第に慎重さを欠いていく。
中庭へと続く静かな回廊に差し掛かったその時、前を歩いていた影が不意に足を止めた。
「おい。そこのデカくて目立つ男子学生」
冷徹な、けれど耳を打つような心地よいテノール。
薪は振り返りもせず、背後を付けてきていた青木を、言葉の刃で一刀両断した。
「いつまで僕に付いてくるつもりかな。第九志望者なら、もう少しマシな尾行を覚えたらどうだ、青木一行君」
憧れの人にフルネームを呼ばれた青木は、まるで雷に打たれたように硬直した。
(……今、薪剛さんが俺の名前を呼んだ? わけないよな、憧れのあまり幻聴か??)
ゆっくりと振り返った薪の瞳は、未来を知る者の哀しさと、抗いようのない慈しみを含んで、20歳の青木を真っ直ぐに見つめた。
「特別講義の時間だぞ。君の憧れの“MRI捜査員”の有難い話を聞かなくていいのかな」
「は、拝聴したいのは山々なのですが、それ以上に……今、ここであなたとお話しできるチャンスを逃したくなくてっ」
「……」
黙って歩き始める薪と、忠犬のように夢中でついてくる長身の青年。
「あの、どうしても、お伺いしたいことがあるんです。10分……いや、5分だけでいいので、お時間をいただけませんか?」
まるで一生に一度の賭けに出るギャンブラーのような熱量の問いかけに、薪は自身の視界に浮かぶカウントダウンを確認しながら答える。
「あと……8分25秒なら、付き合おう」
「あ、ありがとうございます!」
赤煉瓦の回廊を抜けた二人は、旧三四郎池を望む「育徳園」へと辿り着いていた。
生い茂る木々に囲まれたベンチに、薪が腰を下ろす。青木も勢いよく隣に座ったが、あまりに詰めすぎた距離に狼狽し、拳を膝の上で固く握りしめた。
「時間がない。質問は?」
「あ、はい。あの、死者の脳を覗くこと……って、恐ろしくないのでしょうか?」
真っ白になった頭を振り絞ったにしては、あまりに単純な質問。
それを青木は震える声で問いかけた。
「恐くない、と言えば嘘になるな。幻覚、妄想、狂気や苦しみ……あちら側には、普通に生きていればお目にかかれない地獄が幾らでもあるから」
「で、では……MRI捜査員として、最も過酷な地獄に直面してその闇に呑まれそうになった時、あなたを正常なこちら側の世界に繋ぎ止めるものは、何ですか?」
技術や展望論ではない。純朴な青年の口をついて出たのは、魂の在り方への問いだった。
薪は一瞬、目を見開いて目の前の青年を見つめた。将来、この青年が自分の部下となり、真っ直ぐな献身によって見事に上司を救済することになるなんて、当の本人は知る由もない。
「……光、かな」
薪は、遠い未来——そして、すぐ隣にいるこの若者の瞳を見据えて、静かに言葉を紡ぐ。
「死者の脳が見せるどんな地獄も、唯一、生きている人間だけが放つ、愚かなほどに真っ直ぐな光には勝てない。どちら側にも分け隔てなく差し込んでくる光が、僕を救うんだ。……たとえ僕がそれを拒絶し、罵ったとしても、決して見捨てない……裏切らない……」
青木は言葉を失い、ただその葛藤に満ちた美しい横顔を見つめていた。いつかこの人の隣に立つ、そんな未来を予感させるような、甘い眩暈に襲われながら。
そして、薪がここへ降り立ってから早くも5分が経過したようだ。
薪の脳内で、帰還用の『擬似パルス』が微かに鳴動した。が、送られた電気信号は、目の前の青木が放つ揺るぎない存在感に中和されるかのように、霧散して消えていく。
(……エラー? 帰還シーケンスが、作動しない……?)
パルスが効かないのではない。おそらく青木と対峙している自分の潜在意識が、今いるこの世界を「正」として、手放すことを拒む脳波がそれを飲み込んでしまったのかもしれない。
視界の端で、無情に減り続けるデジタルカウントダウンの数字。
――残された時間は、あと3分もない。
薪の背筋に、初めて冷たい戦慄が走った。