金曜のサンクチュアリ

​ 思考を止めた脳は、ぬるい湯の中に溶けかけている。瞼の裏に焼き付く不快な残像が、湯気に巻かれてようやくぼやけ始めた、その時。

​ ――カチッ。
​ 聞き馴染みのない硬質な金属音が、薪の重い瞼を辛うじて押し上げる。
 そして、浴室のドアが音もなく開き、ひんやりとした脱衣所の空気が流れ込んだ。

​ ぺた、ぺた、と吸い付くような、けれど確かな重みを持った足音が、濡れたタイルを伝って近づいてくる。
 鼓膜が拾うその音に合わせるように、薪の心臓がドクン、ドクンと早鐘を打ち始めた。暗闇の中で何者かに肉薄されるという根源的な震えは、それが誰であるかを悟るとともに、熱を帯びた甘い戦慄へと変容していく。

​ やがて、閉ざされた視界の端で、ゆらりと柔らかな光が膨らんだ。
 薪が目を見開くと、灯りを点した幾つかのボールキャンドルをトレイに乗せて、傍らに跪く青木の姿があった。

​「薪さん、お疲れ様です」

​ 深く、密やかな慈愛を湛えたその声が、密室の空気を震わせて、薪の肌に染み込んでくる。
 キャンドルの炎が、青木の端正な顔立ちを柔らかなオレンジ色に縁取っていた。

​「……何のつもりだ……」

「薪さんの好きな、サンダルウッドとバニラの香りです。……きっと疲れすぎて、ご自分を労わる気力も残っていないでしょうから、今夜は俺がお手伝いしますよ」

​ 青木はキャンドルのトレイを棚の端に置くと、パジャマの袖を捲り上げる。
 目の前に現れた張りのある前腕に、薪は思わず目を奪われる。
 干からびた古狐の巣とは対極の、圧倒的な「生」の質量がそこにはあった。見惚れているのを悟られたくなくて逸らそうとするけれど、吸い寄せられた視線は離せない。

​「……薪さん?」

​ 名前を呼ばれ、ハッと顔を上げた時には、もう青木の大きな手が目前に迫っていた。
 
「楽にしてください……嫌なこと全部、俺が流して差し上げますから」

​ 大きな手が薪の頬に触れ、そのままゆっくりとうなじ項を支えて、頭を後ろへ傾ける。
 シャワーの柔らかな温水が地肌を心地よく叩き、青木の指先が髪の間へと滑り込むと、サンダルウッドとバニラの甘く重厚なアロマが、浴室の湿り気を含んで一気に膨らんでいく。

 青木の指が、髪を濡らすためだけに地肌をなぞる。 ただそれだけのことなのに、ゾクゾクと背筋に走る浮わついた熱を抑えることができず、薪は震える指先でバスタブの縁にしがみついた。
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