First name

ワインを思わせる芳醇なコーヒーの香りが、日曜の午後の部屋を満たす。

青木が家族と暮らす福岡の家。
台所に程近い昭和レトロの居間には、薪がよく来るようになってから設置された広いソファがある。
青木と舞と薪が三人一緒に座っても十分くつろげる大きさで、風通しのよい窓際にあるそこは、今の時間、昼寝の特等席だ。

半袖に捲ったシャツから覗く白い片肘を折って枕に、もう片方の手は開いたまま伏せた本の上に乗せて、きもちよく目を閉じている薪は、まるで眠り姫。だがもうそろそろ、料理人も兼ねた騎士がハンドドリップするエチオピア・チェルベサのアロマに誘われて、微睡みからさめる頃だろう。

美しい姫に生涯の忠誠と愛を誓うその大男は、丁度良い具合でぴたりとドリップの手を止めた。
ホットケーキミックスに豆乳とハチミツ、林檎を加えて焼いたクグロフ風のおやつも、オーブンの中で甘い匂いを発している。
楽しいおやつタイムを思い描いてすでに笑顔になっているその男……青木一行は、座卓でお絵かきに夢中な舞の小さな背中に目を向ける。

「ねえ、行ちゃん見てぇ」

ふと舞が振り返って、スケッチブックを持ってくる。
熱心にお絵かきをしていたのかと思いきや、そこに描かれていたのは、花やリボンで縁取られた四角い枠。で、その真ん中には大きく“三人の名前”が書いてある。

「これ、“ひょーさつ”だよ。このお家のひょーさつ、おジイちゃんとおバアちゃんの名前しか書いてないでしょ?だから舞たちのも作ったんだよ」

「…………!」

確かにこの家の門には「青木」そして玄関口には未だに父と母の名前がフルネームで記された表札が掲げられている。
なんて気が利く優しい子なんだ!
胸を熱くする青木が言葉を失ったのには、もう一つ理由があった。

あおき いっこう
まき
まい

―――ええっと。
これはこれでかわいいが、薪の名前を間違えている。
そして誤解はすぐに正さねばなるまい。

「舞。薪さんの“まき”は実は苗字なんだよ。本当の名前は“つよし”っていって……」

「えっ?」
舞は丸い目をパチクリさせる。

「でもそれ男の子の名前だよ」

「いや、舞、そもそも薪さんは男の人だから」

「……ふ~ん……」

舞は呑み込めないような顔で、首を捻る。

「わかったかい?薪さんの名前は、薪剛。表札にはそうやって正しく書いてあげようね」

「まき、つよし……」

舞は噛みしめるように、薪の名前を呟いた。
そして、妙に納得顔で言ったのだ。

「そっかあ……マキちゃんってさ、かわいいけど実はすごく強いのって“つよし”って名前だからなんだね」

青木は思わず笑ってしまう。

「たしかに、きっと“つよし”は、薪さんが強い子になってほしいっていう両親の願いが込められた名前なんだろうな」

「すごい、ちゃ~んと叶ってるんだね!じゃ、舞は?まいはどういう意味なの?」

「そうだなぁ、たぶん舞のお母さんが小さい頃からバレエが大好きで……」

美味しそうなコーヒーの香りにつられて目を覚ました薪は、閉じた本を座卓の上に置く。

そして、そっと頭を持ち上げた瞬間「舞、薪さん起こしておいで」と青木の優しい声が飛んでくるから、薪は慌てて背もたれに向きあい、また横たわった。
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