空回りと焦燥

 駄目だ、集中できない。

​ 第三管区。
 英字新聞を机に放り出した、所長席。
 一つ大きなヤマが片付いた昼下がり、捜査室内には穏やかな気怠さが漂っている。
 
「岡部」

​「……何すか」

​ 呼び出され、薪のデスク前にのそりと立つ岡部。手にした書類に視線を落としたまま、薪は努めて事務的なトーンで問いかけた。

​「青木が新入りの頃……何か、その、僕の夢を見たと言っていなかっただろうか」

​「……は?」
​ 岡部が訝しげに眉を顰め、記憶を辿るように視線を斜め上に泳がせる。それから「ああー!」と合点がいったように声を上げた。
​「そういや配属したての頃、そんなこと言ってましたかね。実は薪さんが女の子だったっていう夢を見て、『やっぱり、ヤッター!』って目覚めたって。今思えばアイツ、新人のくせに雲の上の上司に向かって抜け抜けとそんなこと……何考えてるんスかねえ」

​「……もういい。仕事に戻れ」

​ 何食わぬ顔で岡部を追い返し、珍しく所長室へと引きこもって重い防音ドアを閉めた薪は、背中をドアに預けたまま深く肩で息を吐いた。
​ ああ、やっぱり、あの噂は本当だったのだ。
 青木が好んで自分を選んでくれたことに疑いはない。けれど――本当は女性であった方が、あいつにとってはより良かったのではないか。

 その微かな疑念は、一度芽生えると蔦のように胸の奥へ絡まり広がっていく。

 自分には異性愛者の男が好みそうな柔らかさも、ふわふわした可憐さもない。どこまでも無機質で、愛想のない……同性なのだ。

​ 週の半ば、なんとなく花屋に立ち寄り、観葉植物を買い求めた。
 少しでも部屋に潤いを与え、無機質さを和らげようとする気休めだった。

​ そして夜な夜な、リビングの床にマットを敷いて続けているのは、ヨガだ。
 元々身体は硬くはない。
 だからこそ、もっと柔らかく、しなやかになって……青木が求めるどんな体位も受け止められるカラダになってやる。
​(……って、僕は何を考えているんだっ!)
​ つい真剣にポーズをとりながら、急に己の思考の破廉恥さに気づき、真っ赤に染まった顔を両手で覆う。
 

​ そうしてやってきたのは、待ち侘びた週末。

​「あれ? なんか部屋の雰囲気変わりました? すごくお洒落なグリーンが……」
​ 部屋のドアを開けるなり「素敵ですね」と優しく微笑む青木に、薪は内心ドギマギしながら「気のせいだ」とぶっきらぼうに返す。

​「あと、これ……途中の店で見つけて美味しそうだったので、一緒に食べませんか?」

​ 青木が差し出したのは、色とりどりの瑞々しいメロンやブドウ、パイナップルなどが花束のように飾られた、可愛らしいフルーツブーケだった。
​ ソファに並んで座った二人は、それを摘んで口にする。

​「はい、薪さん。アーンしてください」

​ 星型のパイナップルや丸いメロン、甘いブドウを次々と薪の口元へ運ぶ青木。

​「やっぱり、可愛いものを可愛い人が食べると、可愛さ倍増ですねぇ……」

​「……」
​ 気恥ずかしさに身を硬くしながらも、差し出された瑞々しい香りを拒めず、薪は口を開いて一つ一つを味わった。
 こんな他愛ないままごとにさえ、心ときめき満たされてしまう自分は、どうかしている。


​「映画でも観ませんか」

​ リモコンを操作しながら、青木が訊く。
 自分のアカウントで動画配信サービスを開くと、観たいものリストにある昔の映画をスクロールしはじめる。
 休日前夜の二人が目を止めたのは、名作『ホリデイ』だった。
​ 少し間を開けて座る青木に、薪の身体が少しずつ躙り寄っていく。
 お互いの肩が触れ合う距離で眺める映画の世界は、それだけで景色が違って見えた。
​ だが、物語の中盤。
​ 画面の中で繰り返される男女の熱烈なキスシーン。
 やけに艶めかしくリビングに響くリップ音に、空気が甘く、気まずく張り詰める。

 薪が平静を装いつつ隣の青木をチラリと盗み見ると、同じタイミングでこちらを見ていた青木と完全に目が合ってしまった。
​ 青木は優しく苦笑しながら大きな手で薪の頭をそっと撫で、その額に羽毛が触れるような優しいキスを降らせた。

​「……っ」

​ 薪の胸がキュンと鳴り、体温が跳ね上がる。
愛されている。間違いなく、大切にされている。
 ――けれど。

​(……それじゃ、足りないんだ)
​ 欲しいのは、こんなお姫様のような扱いじゃない。
 もっと肌が、粘膜が、密着して擦り切れるような、息が詰まるあの晩の一撃が欲しいのだ。

​「……青木」

​ 我慢の限界を迎えた薪は、映画の音声にかき消されないよう、震える声を絞り出す。
 顔を合わせる勇気はなくて、膝の上に重ねられた青木の大きな手を強く握りながら訊く。

​「僕はお前の……欲求の対象になり得るのか?」

​ 頭上で青木が息を呑む気配がした。
 握り返す手に、強い力がこもる。

​「当たり前じゃないですか。俺のそういう対象は、むしろあなたしかいません」
​ その声は低く、真剣そのものだった。
 
「っ……風呂に入ってくる」

​ 逃げるように立ち上がってソファを離れる薪。
 慌てて映画を停止する青木に背を向けたまま、薪は脱衣所のドアの手前で足を止め、ぽつりと言った。

​「……一緒に、どうだ?」

​ 心臓が爆発しそうだった。
 男同士とはいえ、恋人をバスルームに誘うのだ。
 これ以上の露骨な合図はない。

​ だが、背後から返ってきたのは、角を立てないように配慮された恐縮した声だった。

​「……い、いえっ! 俺はカラスの行水ですし、薪さんにゆっくり浸かっていただきたいので……お先にどうぞ!」

​ ――断られた。
​ 薪は絶望に近い落胆を噛み締めながら、フラフラと脱衣所に入って服を脱ぎ、一人バスタブの中で膝を抱えるのだった。
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