空回りと焦燥

 枕元に差し込む朝の光が、いつもの室内をまるで別世界のように穏やかな白さで照らしている。

​「……ん」
​ 温かく馴染んだシーツのなかで目を覚ました薪は、自身の身体の奥底に残る、鈍く確かな「熱」を噛み締めながらゆっくりと目を開けた。
​ 付き合って初めて迎えた、夜明け。
 記憶にあるのは、互いの衣服を剥ぎ取りながら交わした、息もできないほど切迫した口づけ。愛する相手の唇や手指が身体中を撫で回し、男である己の狭い内側へ、規格外の熱が容赦なく割り込んできた、その瞬間――頭の中が真っ白になった。

 そこからの記憶が、ぷつりと途切れている。

 
 気がつけば、朝。つまり今だ。
 重い身体とは対照的に、気持ちは生まれ変わったかのようにふわふわと浮き立っている。

​「薪さん……おはようございます」

​ 寝室のドアが静かに開き、黒のエプロンを身に纏った青木がベッドを覗き込んできた。
 いつもの大型犬のような無垢な笑顔――を見せるかと思いきや、その表情はどこか心配そうで、緊張しているようにもみえた。

​「お身体……大丈夫ですか?」

​「うん。お前が拭いてくれたのか」

​「……ええ、すみませんっ」

​ 青木は途端に挙動不審になり、顔を真っ赤にしながら視線を泳がせた。
 なぜ謝るのだろう?
 不思議そうに見つめ返す薪に向き直し、ごくりと喉を鳴らした青木は、おそるおそる問いかけてきた。

​「あの……昨夜のこと、どこまで覚えてらっしゃいますか」

​「ん? それが……あまり……」

​ 首を傾げる薪に、青木はあからさまにホッとした顔をした。だが直後、何か痛ましいものでも見つめるような、複雑な笑みを浮かべる。

​「そう、ですか……すみませんでした。あの、どうか今日はお身体を大事になさってくださいね。ホント、それだけです」

​「……うん?」
​ それだけです、とはどういう意味だ?
 尋ねようとした薪の鼻腔を、ふわりと香ばしい珈琲の香りがくすぐった。

 昨夜、ここへ来る前に二人で駅前のパン屋に寄ったのを思い出す。あの時は、これから始まる夜に互いにひどく浮き足立っていた。
 いや、僕は……今でもなんだが。

​「起きられますか? 朝食の準備、できてますよ」

​「もちろんだ……っ……!」

​ ベッドに脚をかけ立ち上がろうとした瞬間、腰の奥へ容赦なく走った衝撃に、薪の身体が固まった。

​「ああっ、無理なさらず! 俺につかまってください」
​ 青木は薪のわずかな動きを見逃さず、甲斐甲斐しく腰を支えてくれる。

​「……っよせ、恥ずかしい」

​「誰も見てませんよ。失礼します」

​ 拒む間もなく、ふわりと身体が宙に浮いた。
 大きな身体にすっぽりと横抱きにされ、そのままリビングの椅子まで運ばれる。まだセットしていない青木の前髪からは、自分と同じシャンプーの甘い香りがした。
 いつもより近い距離。直に伝わる体温に、心臓がうるさいほど跳ね上がる。好きな男にこんなにも優しく扱われて、ときめかないはずがなかった。

​「いただきます」

​ テーブルに並ぶのは、昨夜二人で買ったクロワッサンと、丁寧に淹れられた珈琲だ。
「美味しいパンですね」と青木が寛いだ顔で笑う。

 それなのに、どこかで何かが引っかかっていた。

​ その日は土曜日。
 青木は朝から晩まで、呆れるほど献身的に薪の世話を焼き続けた。
 部屋の掃除から洗濯、買い物から料理まで全て一人でこなし、薪はさながら「三食昼寝付き」の贅沢な身分を押し付けられたようだった。
 
 そして、その晩になっても。
 謎の違和感は拭えぬまま、薪はどこか距離を置かれた状態で、実にあっさりと、心地よく寝かしつけられてしまったのだ。

​ 向けられる優しさも、実直な笑顔も申しぶんない。

けれど、その献身のすべてがどこか『罪滅ぼし』のように見えるのは何故なのだろう。

​ どこが、と問われても明確に説明はできない。
 ただ、強いて言うなら――世話をするときや身体を労わるとき以外、青木は徹底して自分に触れないよう、不自然なほど一定の距離を置かれている。
​ リビングのソファで隣同士寛ぐ時でさえ、あからさまに体一つ分空けて座る青木を横目に、薪は首を傾げた。

​(まさか……一度きりのアレで、幻滅されたのか? いや、まさかな)


​ 苦い自問自答を繰り返すうちに、瞬く間に日曜の午後が訪れ、青木の帰る時間がやってきた。

​「あの……次の週末も、またお邪魔していいですか?」

​ 玄関のドアノブに手をかけた青木が、意を決したように振り返り、熱い眼差しでこちらを見つめて訊いてくる。
 その瞳には間違いなく自分への執着と情愛が溢れていて、薪は胸を震わせながら上擦った声で答えた。

​「……来たければ、好きにしろ」

​「ありがとうございます!」

​ 青木の顔がパァッと輝き、大きく振る尻尾が見えるようだ――と思った、次の瞬間だった。

​「し、失礼します……!」

​ 思い詰めたような顔で詰め寄ってきた青木が、薪の唇に深い口づけを落としたのだ。

「っ……」
 驚きに目を見開く薪を置き去りにしたまま、青木は踵を返し、逃げるように出ていってしまう。

​ パタン、と静かに閉まったドアの前で、薪は呆然と己の唇に指を当てた。

 手を出してこないくせに……去り際のあの、熱く、切実なキスは何なんだ。

​「クソっ……感情が忙しい」
​ 疼く熱とともに零した声が、一人になった静かな部屋にぽつりと響いた。
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