恋愛偏差値と歳の差
タクシーを降り、慣れ親しんだマンションの扉を開け中に入った瞬間、二人は同時に肩で安堵の溜息を吐いた。
静まり返ったリビング。
いつもの柔らかな照明。
洒落た隠れ家バーの特選ボトルよりも、棚に並んだ薪のお気に入りのワインの方が、今の二人にしっくりくる。
「やっぱり、ここが一番落ち着きますね」
「そうだな……」
グラスを合わせ、青木が眉を下げて笑う。
その飾らない寛いだ笑顔に、薪はようやく胸の奥に刺さった小さな「トゲ」を言葉に変えた。
「青木。すまなかった」
「へ? なんで薪さんが謝るんですか」
「お前に愛想を尽かされたくない余りに、自分を見失っていた。さっきの店での、熱を出したみたいな挙動不審も……」
「え……?」
「いや、一回りも下の若者であるお前から見て、僕は……ひどく退屈で、世俗の楽しみを知らない男だろう? だから『年上の色気』なるものをお前に見せようと躍起になって、無理に上げようとしていたんだ。その……偏差値 を」
自虐的な苦笑を浮かべながら白状する薪を見て、青木は目を丸くした。
「えっ、そんな……! 俺こそ、いつまで経っても子供扱いされるのが嫌で、岡部さんに負けじと必死に背伸びしようとして、不慣れな店を選んでしまい……」
「は?子供扱い? ……なぜ岡部が出てくるんだ」
「だって、俺が岡部さんとの行きつけの店に行きたいと言った時、『お前にはまだ早い』と仰ったじゃないですか。あれ、相当ショックだったんですよ、俺には立ち入れない大人の世界があるんだ、って」
薪は一瞬絶句し、それからひどく困ったように泳がせた視線を、小さく揺れるワインの液面に落とした。
「……あそこは旨いが……その、色気がない。そんな場所を気に入りだと連れていけば、お前に恋愛偏差値の低さを露呈するようなものだと思ったんだ」
「えっ、そんな……あなた『恋愛偏差値』をどこまで真面目に捉えて……」
青木は絶句したあと、今度は込み上げる愛おしさがおかしさに変わって、吹き出した。
お互いを大切に想い、理想の相手でありたいと願うあまりの、不器用で滑稽なすれ違い。
「……最初から、お前の喜ぶことを素直にやってやればよかったんだな」
「俺も……あなたの思いやりを、もっと素直に受け止めるべきでした」
夜も更けたバスルームで。
青木がシャツを脱ぐのを待ちかねていたかのように、薪が奪うようにして部屋着代わりに纏う。
そして、ぶかぶかの袖を弄りながら、上目遣いに青木を見上げた。
「それで、カレシャツとやらは、これでいいのか?」
狙いすました色気など足元にも及ばない、破壊的なまでの、無垢の威力。
青木はあまりの尊さに、本当に心臓が止まりそうになる。
「……ま、薪さん。清らかで、尊すぎて! 世界一です、最高です!!」
「……ふん。こんな格好だけでお前が良い気分になるのなら、しばらく着ていてやってもいい」
「薪さああああん!!」
我慢できずに抱きつく大型犬は、脱衣所で驚く飼い主をそのままベッドへと連れ去った。
薪は「重い、どけ!」と毒づきながらも、乱れたシーツに沈み、その温もりを受け入れて溺れる。
肌という肌をむさぼられても、そのまま体内に雪崩込まれても、すべてを好きにさせ続ける――まったく、甘い飼い主だった。
翌朝。
先に起きた青木の声が、洗面所からきこえてくる。
「あれ? 何ですか、これ。……薪さん?」
「っ! 見るな! 何でもない、返せ!!」
血相を変えて飛び込んできた薪が映る鏡の前に、ピン留めされていた、小さなメモの切れ端。
つまみ上げた青木の手から、薪が飛びかからんばかりの勢いでそれを取り上げる。
だが、青木のぼやけた視力でも、その内容はしっかりと捉えられていた。
・Tactile Communication:
Unexpected preemptive strike
・Optical Angle:
15 degrees downward
・Dress Code:
Unbutton up to the second line
(Ensure neatness)
訳)
触覚コミュニケーション:
不意の先制攻撃
視覚角度:
下方15度 =伏せ目
ドレスコード:
第2ラインまで開襟(ただし清潔感を維持)
「ま、薪さん……なんでこんなに、健気でお可愛らしいんですかっ。あなた、練習まで……てかなんで英語っ」
「うるさい! 僕はただ、どうせなら完璧にと……」
顔を真っ赤にしてメモを握り潰す薪を、青木は笑いながら背後からすっぽり覆い隠すように抱きしめた。
「嬉しいです。だから俺にも、薪さんが喜ぶことさせてください。何がいいですか? 薪さんだけの『正解』……教えてください……」
耳元で囁かれ、キスで撫でられ、薪の抵抗が目に見えて弱まる。
窓の外には週末土曜の穏やかな空が広がっていたが、この部屋の“熱”が下がるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
静まり返ったリビング。
いつもの柔らかな照明。
洒落た隠れ家バーの特選ボトルよりも、棚に並んだ薪のお気に入りのワインの方が、今の二人にしっくりくる。
「やっぱり、ここが一番落ち着きますね」
「そうだな……」
グラスを合わせ、青木が眉を下げて笑う。
その飾らない寛いだ笑顔に、薪はようやく胸の奥に刺さった小さな「トゲ」を言葉に変えた。
「青木。すまなかった」
「へ? なんで薪さんが謝るんですか」
「お前に愛想を尽かされたくない余りに、自分を見失っていた。さっきの店での、熱を出したみたいな挙動不審も……」
「え……?」
「いや、一回りも下の若者であるお前から見て、僕は……ひどく退屈で、世俗の楽しみを知らない男だろう? だから『年上の色気』なるものをお前に見せようと躍起になって、無理に上げようとしていたんだ。その……
自虐的な苦笑を浮かべながら白状する薪を見て、青木は目を丸くした。
「えっ、そんな……! 俺こそ、いつまで経っても子供扱いされるのが嫌で、岡部さんに負けじと必死に背伸びしようとして、不慣れな店を選んでしまい……」
「は?子供扱い? ……なぜ岡部が出てくるんだ」
「だって、俺が岡部さんとの行きつけの店に行きたいと言った時、『お前にはまだ早い』と仰ったじゃないですか。あれ、相当ショックだったんですよ、俺には立ち入れない大人の世界があるんだ、って」
薪は一瞬絶句し、それからひどく困ったように泳がせた視線を、小さく揺れるワインの液面に落とした。
「……あそこは旨いが……その、色気がない。そんな場所を気に入りだと連れていけば、お前に恋愛偏差値の低さを露呈するようなものだと思ったんだ」
「えっ、そんな……あなた『恋愛偏差値』をどこまで真面目に捉えて……」
青木は絶句したあと、今度は込み上げる愛おしさがおかしさに変わって、吹き出した。
お互いを大切に想い、理想の相手でありたいと願うあまりの、不器用で滑稽なすれ違い。
「……最初から、お前の喜ぶことを素直にやってやればよかったんだな」
「俺も……あなたの思いやりを、もっと素直に受け止めるべきでした」
夜も更けたバスルームで。
青木がシャツを脱ぐのを待ちかねていたかのように、薪が奪うようにして部屋着代わりに纏う。
そして、ぶかぶかの袖を弄りながら、上目遣いに青木を見上げた。
「それで、カレシャツとやらは、これでいいのか?」
狙いすました色気など足元にも及ばない、破壊的なまでの、無垢の威力。
青木はあまりの尊さに、本当に心臓が止まりそうになる。
「……ま、薪さん。清らかで、尊すぎて! 世界一です、最高です!!」
「……ふん。こんな格好だけでお前が良い気分になるのなら、しばらく着ていてやってもいい」
「薪さああああん!!」
我慢できずに抱きつく大型犬は、脱衣所で驚く飼い主をそのままベッドへと連れ去った。
薪は「重い、どけ!」と毒づきながらも、乱れたシーツに沈み、その温もりを受け入れて溺れる。
肌という肌をむさぼられても、そのまま体内に雪崩込まれても、すべてを好きにさせ続ける――まったく、甘い飼い主だった。
翌朝。
先に起きた青木の声が、洗面所からきこえてくる。
「あれ? 何ですか、これ。……薪さん?」
「っ! 見るな! 何でもない、返せ!!」
血相を変えて飛び込んできた薪が映る鏡の前に、ピン留めされていた、小さなメモの切れ端。
つまみ上げた青木の手から、薪が飛びかからんばかりの勢いでそれを取り上げる。
だが、青木のぼやけた視力でも、その内容はしっかりと捉えられていた。
・Tactile Communication:
Unexpected preemptive strike
・Optical Angle:
15 degrees downward
・Dress Code:
Unbutton up to the second line
(Ensure neatness)
訳)
触覚コミュニケーション:
不意の先制攻撃
視覚角度:
下方15度 =伏せ目
ドレスコード:
第2ラインまで開襟(ただし清潔感を維持)
「ま、薪さん……なんでこんなに、健気でお可愛らしいんですかっ。あなた、練習まで……てかなんで英語っ」
「うるさい! 僕はただ、どうせなら完璧にと……」
顔を真っ赤にしてメモを握り潰す薪を、青木は笑いながら背後からすっぽり覆い隠すように抱きしめた。
「嬉しいです。だから俺にも、薪さんが喜ぶことさせてください。何がいいですか? 薪さんだけの『正解』……教えてください……」
耳元で囁かれ、キスで撫でられ、薪の抵抗が目に見えて弱まる。
窓の外には週末土曜の穏やかな空が広がっていたが、この部屋の“熱”が下がるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。