恋愛偏差値と歳の差
甘い嵐のような週末が過ぎ、月曜の朝が訪れた。
青木は早朝の便で福岡の第八管区へと戻り、薪のマンションには所在なげな静寂が戻っていた。
いつものように出勤し、膨大な資料に目を通し、時には現場へと飛び出す日々。
しかし薪の心中だけは、週が明けても穏やかではなかった。
遠く離れた福岡にいるはずの恋人が残していった、「初々しい」という言葉。
それは本来、賛辞として受け取っていいものかもしれない。だが、組織の長であり、一回りも年上の自分が、その“無知”に甘んじていていいのか。
すべてを完璧にこなす薪にとって、それは受け流すことができない痼 になっていた。
水曜日の昼下がり。
科警研の休憩テラスでは、第一研究室の黒田雪子と後輩の菅井律子がティータイムを楽しんでいた。
「……それで聞いてくださいよ雪子さん。昨日のデートで私の彼ってば、まさに『スパダリ』なエスコートで! キメ細かい完璧主義なんで。私こーゆー性格でしょ? 『地雷』踏まないよう気取っちゃうんですけど、それって……」
通りかかった薪の耳に、未知の語彙が飛び込んでくる。スパダリ。地雷。……エスコートならわかるが、他は異国の言語だ。彼女たちが当たり前に使いこなすその「掟」を、自分はどれほど理解できているだろうか。
「あっ……」
近づいてくる薪の放つただならぬ気配に気づき、菅井が言葉を止めた。
コーヒーカップを手にした雪子もまた、まるで国家の存亡を左右する極秘事項でも抱えているかのような薪の峻烈な表情を見て固まる。
「……雪子さん。少しいいですか」
「あ、あの! 薪所長、お疲れ様です! 私、急ぎの用を思い出したので先に戻りますね。雪子さん、また!」
嵐の予感を察知した菅井は、逃げるようにその場を後にした。
残された雪子は、困惑気味に微笑んで向かいの席を促す。
「どうしたの、つよし君。そんなに怖い顔をして。……何か難事件でも?」
「いや……事件ではないんですが、少し相談が」
雪子が店員を呼び止め、コーヒーを追加注文する。華やかな所作でカップを操る友人を前に、薪は周囲を一度警戒するように見渡してから、声を潜めて切り出した。
「……恋愛偏差値、というのは、どうすれば上がるものなんだろうか」
「……は?」
薪が至極真面目な面持ちで放った問いに、雪子は危うくカップを落としそうになった。
「つ、つよし君、今なんて……?」
「いや、僕は周囲の人間に比べ『恋の掟』に関する知識が著しく欠けているようなんだ。青木はそれが長所だとも言うんだが、さすがに年長者として、これでは申し訳なく……」
恥じらいに耳を赤くしながらも、本気で“攻略法”を請う薪。そのいじらしさに、雪子は内心で悶絶する。
(青木君、なんて罪作りなことを……!)
「そうね……まあつよし君はそのままでいいと思うけど。でも、たまには『年上の余裕』を見せて、彼を驚かせてあげるとか? 少し大胆に、自分からリードしてみるのよ。例えば、不意打ちのボディタッチとか、少し色気のある視線とか……」
「リード……色気のある、視線……」
薪は、未知の数式を解く学者のような目つきで、その言葉を反芻するしかなかった。
その晩。第八管区の青木から、一件の連絡が入った。
『薪さん、俺、金曜に警視庁での事例共有で、広域合同捜査会議に出席することになりましたので、週末……金曜からそちらにお邪魔してもいいですか?』
東京出張。
そして、その後の宿泊――薪はスマートフォンの画面を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
雪子に教わった「実践」の機会が、予想よりも早く訪れたのだ。
同日の深夜、マンションの寝室。
薪は一人、鏡の前の自分とぎこちなく向き合っている。
「……年上の、余裕……」
不自然なほどゆっくりとネクタイに指をかけて弛め、鏡の中の自分を見据える。雪子曰く「ボタンは二つ開けるのが効果的」とのことだったが。
「……っ、これでは、だらしなくないか……?」
鎖骨のラインにこだわりながら襟元を開き、不自然に伏せ目を作ってみる。
角度を変え、表情を変え、時折「……おいで」などと小さく呟いてみては、あまりの気恥ずかしさに顔を覆って蹲 った。
「……無理だ。似合わない」
鏡の中の自分は、相変わらず初心者のような戸惑いを隠せていない。
このままでいい……なんて、どうしても思えなかった。
「偏差値なんて関係ない」と、年下の恋人に慰められることほど、今の薪にとって情けないことはない。
(青木。お前に……恋愛においてもちゃんと『大人』の僕を見てほしい)
薪は再び、鏡に向き直った。
その美しい顔には、捜査の時とはまた違う、悲壮な決意が宿っていた。
青木は早朝の便で福岡の第八管区へと戻り、薪のマンションには所在なげな静寂が戻っていた。
いつものように出勤し、膨大な資料に目を通し、時には現場へと飛び出す日々。
しかし薪の心中だけは、週が明けても穏やかではなかった。
遠く離れた福岡にいるはずの恋人が残していった、「初々しい」という言葉。
それは本来、賛辞として受け取っていいものかもしれない。だが、組織の長であり、一回りも年上の自分が、その“無知”に甘んじていていいのか。
すべてを完璧にこなす薪にとって、それは受け流すことができない
水曜日の昼下がり。
科警研の休憩テラスでは、第一研究室の黒田雪子と後輩の菅井律子がティータイムを楽しんでいた。
「……それで聞いてくださいよ雪子さん。昨日のデートで私の彼ってば、まさに『スパダリ』なエスコートで! キメ細かい完璧主義なんで。私こーゆー性格でしょ? 『地雷』踏まないよう気取っちゃうんですけど、それって……」
通りかかった薪の耳に、未知の語彙が飛び込んでくる。スパダリ。地雷。……エスコートならわかるが、他は異国の言語だ。彼女たちが当たり前に使いこなすその「掟」を、自分はどれほど理解できているだろうか。
「あっ……」
近づいてくる薪の放つただならぬ気配に気づき、菅井が言葉を止めた。
コーヒーカップを手にした雪子もまた、まるで国家の存亡を左右する極秘事項でも抱えているかのような薪の峻烈な表情を見て固まる。
「……雪子さん。少しいいですか」
「あ、あの! 薪所長、お疲れ様です! 私、急ぎの用を思い出したので先に戻りますね。雪子さん、また!」
嵐の予感を察知した菅井は、逃げるようにその場を後にした。
残された雪子は、困惑気味に微笑んで向かいの席を促す。
「どうしたの、つよし君。そんなに怖い顔をして。……何か難事件でも?」
「いや……事件ではないんですが、少し相談が」
雪子が店員を呼び止め、コーヒーを追加注文する。華やかな所作でカップを操る友人を前に、薪は周囲を一度警戒するように見渡してから、声を潜めて切り出した。
「……恋愛偏差値、というのは、どうすれば上がるものなんだろうか」
「……は?」
薪が至極真面目な面持ちで放った問いに、雪子は危うくカップを落としそうになった。
「つ、つよし君、今なんて……?」
「いや、僕は周囲の人間に比べ『恋の掟』に関する知識が著しく欠けているようなんだ。青木はそれが長所だとも言うんだが、さすがに年長者として、これでは申し訳なく……」
恥じらいに耳を赤くしながらも、本気で“攻略法”を請う薪。そのいじらしさに、雪子は内心で悶絶する。
(青木君、なんて罪作りなことを……!)
「そうね……まあつよし君はそのままでいいと思うけど。でも、たまには『年上の余裕』を見せて、彼を驚かせてあげるとか? 少し大胆に、自分からリードしてみるのよ。例えば、不意打ちのボディタッチとか、少し色気のある視線とか……」
「リード……色気のある、視線……」
薪は、未知の数式を解く学者のような目つきで、その言葉を反芻するしかなかった。
その晩。第八管区の青木から、一件の連絡が入った。
『薪さん、俺、金曜に警視庁での事例共有で、広域合同捜査会議に出席することになりましたので、週末……金曜からそちらにお邪魔してもいいですか?』
東京出張。
そして、その後の宿泊――薪はスマートフォンの画面を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
雪子に教わった「実践」の機会が、予想よりも早く訪れたのだ。
同日の深夜、マンションの寝室。
薪は一人、鏡の前の自分とぎこちなく向き合っている。
「……年上の、余裕……」
不自然なほどゆっくりとネクタイに指をかけて弛め、鏡の中の自分を見据える。雪子曰く「ボタンは二つ開けるのが効果的」とのことだったが。
「……っ、これでは、だらしなくないか……?」
鎖骨のラインにこだわりながら襟元を開き、不自然に伏せ目を作ってみる。
角度を変え、表情を変え、時折「……おいで」などと小さく呟いてみては、あまりの気恥ずかしさに顔を覆って
「……無理だ。似合わない」
鏡の中の自分は、相変わらず初心者のような戸惑いを隠せていない。
このままでいい……なんて、どうしても思えなかった。
「偏差値なんて関係ない」と、年下の恋人に慰められることほど、今の薪にとって情けないことはない。
(青木。お前に……恋愛においてもちゃんと『大人』の僕を見てほしい)
薪は再び、鏡に向き直った。
その美しい顔には、捜査の時とはまた違う、悲壮な決意が宿っていた。