エスとエムのはなし
翌日も、第九に平穏が訪れることはなかった。
三日間不眠不休の特捜から一夜が明けた朝。
新たな事件の発生と対応依頼が容赦なく飛び込んだ捜査室は、依然として戦場のような殺伐とした空気に包まれている。
そんな中、皺ひとつないスーツをピシリと纏った薪の冷徹な声が響いた。
「お前たち、朝から何を死体のような顔をしているんだ! 山城、鑑定結果とMRIの差分を十時までにまとめろ! 波多野はこっちの送致書のチェックだ、一字のミスも許さないからな!」
顎まで隠れるハイネックの襟元を正しながら、疲れの癒えない岡部 の背後から厳しい指示を出す。そんな所長の生地が擦れるたびに疼く「昨夜の印」の感触に、ゾクゾクしながら包まれる自虐的快感なんて、当然誰も知らない。
そこへ、第八管区へ戻る前に顔を出した青木が、異常なほど肌艶の良い笑顔で現れた。
「おはようございます! 皆さんに差し入れです。休憩室の冷蔵庫に栄養ドリンクを入れておきましたので、ご自由にお飲みください!」
「まだいたのか、青木。うるさいぞ……さっさと自分の管区へ戻れ! お前の顔を見るだけで疲れる」
「ハイッ、ありがとうございます! それでは、皆さんお世話になりました……失礼します!」
嬉々として去っていく青木の背中に、波多野が涙を浮かべて呟いた。
「……あんなに尽くしてるのに、朝から罵倒されて『ありがとう』って答えて……青木さんの報われない忠誠心が、尊すぎるっっ」
さっそく休憩室に来て、ドリンクで栄養補給している波多野のところへ、山城もやってくる。
「ぶっちゃけ、薪さんは天然記念物級のドSだよな。でもさっきのアレ……あの美貌で罵倒されるなら、正直ちょっとアリかも……」
「ええっ、山城さんもMっ気アリなんですか? でも青木さんには敵わないですよねぇ。いつも所長からあんな扱いを受けて、よくあんなふうに喜べるなと……」
そこへ丁度、帰宅準備を整えた青木が通りかかった。
「あ、青木さん! 一つ教えてください。正直に答えてくださいね……青木さんは『S』っていうより……その、『M』ですよねぇ?」
呼び止めた波多野の直球すぎる質問に、山城はドリンクを噴き出しそうになる口を押さえている。
だが、青木はポカンとし、それから爽やかに笑った。
「え? ああ……俺は基本、Lかな。見かけによらず肩幅があるんで、メーカーによってはLLじゃないとキツいかも」
「……服のサイズの話じゃないですよっっ!!」
絶叫する波多野を余所に、青木は意気揚々と後ろ手を振って去っていった。
その日の夜。
特捜期間中に捜査が進んだ第八管区の事件に関する報告が、青木と薪の間でWebを介して行われていた。
イヤホンを装着した二人の会話は、周囲には聞こえていない。
真剣な面持ちでモニター越しに話すその姿は、週の半ばで疲れ果てた捜査員たちの目には、離れていても共鳴し合う“仕事の鬼”コンビにしか見えない。
「……以上が懸念事項になります。門司の事件については、第六管区の曽我さんとも連携のうえ慎重に進めます」
見ての通り、仕事には真摯に向き合っている。だが、イヤホン越しに響く青木の低い声と僅かな息づかいに、事務的に頷きながらも、薪の首筋や身体の奥は甘やかに疼いていた。
「こちらからは以上ですが、薪さんからは何かありますか?」
「……昼間」
「はい?」
「休憩室で山城たちがヘンな話をしていたようだが、お前、余計なことは言ってないだろうな?」
薪の牽制に、青木の口角が上がる。
「ああ……俺は無いですが、彼らが何か言ってましたね。『薪さんが朝からずっと首元を気にされて顔を赤くしていたけど、大丈夫かな』とか……」
「なっ……」
一瞬、薪の思考が停止した。みるみるうちに頬が染まり大きな瞳が熱で潤むのが、Webカメラ越しでも鮮明にわかる。
羞恥に震える薪を見て、画面の中の青木が眉尻を下げた。
「すみません、嘘です。誰もそんなこと言ってませんよ」
「……っ、お前……っ!! 今すぐ死ね!!!」
静まり返ったオフィスに、薪の絶叫が響き渡った。
帰り支度を始めていた山城と波多野が、ビクッと肩を跳ねさせて、恐る恐る薪の席を伺う。
立ち上がった音を立ててノートPCを閉じ、書類を掴む手をワナワナと震えさせている。
「……ひぇっ。薪さん、Web会議でまであんなに青木さんを怒鳴るなんて、やっぱり最強のドSだ……青木さんは、また何をやらかしたんでしょうね?」
「いやあれが通常運転だろ。もはや鉄壁のSM関係だよな」
的外れな同情と納得を寄せる若手たちの横で、すべてを察している岡部室長だけが、深すぎる溜息をついた。
「……青木、あのバカ……秘密は墓まで持ってけと言ってるだろうが……」
まだ、通信は途絶えていない。
映像が途絶えてブラックアウトした画面の向こう側で、飼い主を翻弄する悪い大型犬が尻尾を振りながら低い声で囁いた。
『すみません……そんなにお気に召されたのなら、週末にまた、薪さんがお好きな別の場所にも痕 をつけに、俺、伺いますから』
イヤホン越しに囁かれたその低く甘い声が、薪の身体を再び熱く、激しく疼かせる。
SとM。周囲が真逆の同情を寄せる中で、薪は誰にも見られないよう、熱い息を吐いて、首筋を再びそっと指先でなぞるのだった。
三日間不眠不休の特捜から一夜が明けた朝。
新たな事件の発生と対応依頼が容赦なく飛び込んだ捜査室は、依然として戦場のような殺伐とした空気に包まれている。
そんな中、皺ひとつないスーツをピシリと纏った薪の冷徹な声が響いた。
「お前たち、朝から何を死体のような顔をしているんだ! 山城、鑑定結果とMRIの差分を十時までにまとめろ! 波多野はこっちの送致書のチェックだ、一字のミスも許さないからな!」
顎まで隠れるハイネックの襟元を正しながら、疲れの癒えない
そこへ、第八管区へ戻る前に顔を出した青木が、異常なほど肌艶の良い笑顔で現れた。
「おはようございます! 皆さんに差し入れです。休憩室の冷蔵庫に栄養ドリンクを入れておきましたので、ご自由にお飲みください!」
「まだいたのか、青木。うるさいぞ……さっさと自分の管区へ戻れ! お前の顔を見るだけで疲れる」
「ハイッ、ありがとうございます! それでは、皆さんお世話になりました……失礼します!」
嬉々として去っていく青木の背中に、波多野が涙を浮かべて呟いた。
「……あんなに尽くしてるのに、朝から罵倒されて『ありがとう』って答えて……青木さんの報われない忠誠心が、尊すぎるっっ」
さっそく休憩室に来て、ドリンクで栄養補給している波多野のところへ、山城もやってくる。
「ぶっちゃけ、薪さんは天然記念物級のドSだよな。でもさっきのアレ……あの美貌で罵倒されるなら、正直ちょっとアリかも……」
「ええっ、山城さんもMっ気アリなんですか? でも青木さんには敵わないですよねぇ。いつも所長からあんな扱いを受けて、よくあんなふうに喜べるなと……」
そこへ丁度、帰宅準備を整えた青木が通りかかった。
「あ、青木さん! 一つ教えてください。正直に答えてくださいね……青木さんは『S』っていうより……その、『M』ですよねぇ?」
呼び止めた波多野の直球すぎる質問に、山城はドリンクを噴き出しそうになる口を押さえている。
だが、青木はポカンとし、それから爽やかに笑った。
「え? ああ……俺は基本、Lかな。見かけによらず肩幅があるんで、メーカーによってはLLじゃないとキツいかも」
「……服のサイズの話じゃないですよっっ!!」
絶叫する波多野を余所に、青木は意気揚々と後ろ手を振って去っていった。
その日の夜。
特捜期間中に捜査が進んだ第八管区の事件に関する報告が、青木と薪の間でWebを介して行われていた。
イヤホンを装着した二人の会話は、周囲には聞こえていない。
真剣な面持ちでモニター越しに話すその姿は、週の半ばで疲れ果てた捜査員たちの目には、離れていても共鳴し合う“仕事の鬼”コンビにしか見えない。
「……以上が懸念事項になります。門司の事件については、第六管区の曽我さんとも連携のうえ慎重に進めます」
見ての通り、仕事には真摯に向き合っている。だが、イヤホン越しに響く青木の低い声と僅かな息づかいに、事務的に頷きながらも、薪の首筋や身体の奥は甘やかに疼いていた。
「こちらからは以上ですが、薪さんからは何かありますか?」
「……昼間」
「はい?」
「休憩室で山城たちがヘンな話をしていたようだが、お前、余計なことは言ってないだろうな?」
薪の牽制に、青木の口角が上がる。
「ああ……俺は無いですが、彼らが何か言ってましたね。『薪さんが朝からずっと首元を気にされて顔を赤くしていたけど、大丈夫かな』とか……」
「なっ……」
一瞬、薪の思考が停止した。みるみるうちに頬が染まり大きな瞳が熱で潤むのが、Webカメラ越しでも鮮明にわかる。
羞恥に震える薪を見て、画面の中の青木が眉尻を下げた。
「すみません、嘘です。誰もそんなこと言ってませんよ」
「……っ、お前……っ!! 今すぐ死ね!!!」
静まり返ったオフィスに、薪の絶叫が響き渡った。
帰り支度を始めていた山城と波多野が、ビクッと肩を跳ねさせて、恐る恐る薪の席を伺う。
立ち上がった音を立ててノートPCを閉じ、書類を掴む手をワナワナと震えさせている。
「……ひぇっ。薪さん、Web会議でまであんなに青木さんを怒鳴るなんて、やっぱり最強のドSだ……青木さんは、また何をやらかしたんでしょうね?」
「いやあれが通常運転だろ。もはや鉄壁のSM関係だよな」
的外れな同情と納得を寄せる若手たちの横で、すべてを察している岡部室長だけが、深すぎる溜息をついた。
「……青木、あのバカ……秘密は墓まで持ってけと言ってるだろうが……」
まだ、通信は途絶えていない。
映像が途絶えてブラックアウトした画面の向こう側で、飼い主を翻弄する悪い大型犬が尻尾を振りながら低い声で囁いた。
『すみません……そんなにお気に召されたのなら、週末にまた、薪さんがお好きな別の場所にも
イヤホン越しに囁かれたその低く甘い声が、薪の身体を再び熱く、激しく疼かせる。
SとM。周囲が真逆の同情を寄せる中で、薪は誰にも見られないよう、熱い息を吐いて、首筋を再びそっと指先でなぞるのだった。