レンズのむこう
翌朝。青木は決して大幅な寝坊をしたわけではなかった。
幼い姪と暮らす習慣で、ゆっくりできる休日の朝も、適度な時間に意識が覚醒する。
しかし今日の青木家の朝は、それ以上に早かった。
居間から漏れてくる賑やかな声に、青木は自分の耳を疑う。
「これ、お口に合うかしら」
「ありがとうございます……梅シロップって、こんなに良い香りなんですね。……ん、スッキリしてて美味しいです」
「そうなのよ。青梅だから爽やかでしょ。これが熟したのだと、もっと濃厚で甘ーくなってねぇ」
「ねぇ、 あとでこれ、舞と半分こしよ♪」
「うん、そうしよう」
「やったあ!マキちゃんと半分こだぁ」
まきさん……だとぉ??
青木はベッドから跳ね起きると同時に手探りでサイドボードの眼鏡を探す。
いや、無いんだった……と、青木はそのまま居間に飛び込んだ。
ぼやけた青木の眼前に広がるのは、朝の柔らかな光が差し込む食卓。
そして、昨夜のうだるような妄想の中で激しく絡み合ったはずの「薪剛」の実物が、さも当たり前のようにようにそこに座している。
「……ま、薪……さん!?」
「おはよう。コーちゃん は少し寝坊だな」
「コっ……」
その呼び名は、反則だ。
どこから突っ込んでいいのかもはやわからない。
舞に「マキちゃん」と呼ばれながら自分を「コーちゃん」と呼ぶ薪は、約束もないのに現れて、青木家の中心で笑っている、この状況。
「な……なんで。てか、言ってくだされば空港にお迎えに上がったのに……」
「気遣いは無用だ。母上が梅を分けてくれると仰るから、いただきに上がっただけだから」
「は? 梅って……」
青木の困惑を余所に、おバアちゃんがホクホクとした顔で朝食の皿を並べている。
「いいじゃないの。まあコーちゃんも座りなさいな。今さっき中村のおじさんが梅ヶ枝餅をくれたんよ。娘さんが朝一番で太宰府へ参ってきたんだって」
「朝ごはんの後のデザートだよ。まだ温かいの……マキちゃんと半分こするんだぁ」
薪の隣を陣取った舞は、餅を包んだ両手を温めながら満面の笑顔で言う。
おバアちゃんにとっては、一人息子の想い人で「身内」のように情を注ぎたくなる存在。
舞にとっては、綺麗で優しくて、大好きなコーちゃんとはまた違う、柔らかで華やかで特別な存在。
二人の女性にちやほやと囲まれている薪は、どこか所在なげだが、大切に扱われることを快く受け入れているようにみえた。
青木は、自分の家でありながら、その光景に気圧されて立ち尽くす。
眼鏡のない、すべての輪郭が淡く滲むぼやけた視界。だからこそ、薪の神々しい美しさと舞たちの屈屈のない笑顔が混ざり合う家族像が、水彩画のようになおさら眩しく胸に迫るのだ。
「コーちゃんは眼鏡を新調しに行くんだろう? 僕も用事があるから、一緒に行ってみようかな」
投げかけられる、澄ました薪の言葉。
だが、その声のトーンがわずかに上擦っているのを、青木は聞き逃さなかった。昨夜、画面越しに見つめあった「視覚と聴覚だけの逢瀬」に、この人はどうしても耐えられなくなって、朝一番に飛んできたのではないか――そんな思い上がりに似た甘い予感が脳裏をよぎる。
舞とおバアちゃんは連れ立って、別の約束に向けて出かける支度を始めている。
「眼鏡を見に行こう」と急かされた青木も、洗面所に立って準備を始めた。
(最低だな、俺は。こんなに尊い人を、昨夜卑猥な妄想まみれにして……)
自嘲を噛み締め、洗面台の引き出しを開けると「コンタクトレンズ」の箱に目が留まる。
今夜またこれ が活躍するかもしれないが、今日はこれから眼鏡屋で検眼だ。
代わりに旧い眼鏡を取り出して、洗面台の上に置く。
「……よし」
顔を洗って、鏡の前に顔を近づけ髭を剃り始める。
と、ふと背後に、気配を感じた。
鏡越しに見える薪の姿はぼやけていて、その表情の細部までは判別できない。
だが、薪は青木の一挙一動を――まるで親の背中を追う子供のように、ぴったりと寄り添ってじっと見上げているのがわかる。
その姿があまりに無垢で幼く見えて、昨夜脳内で何度も繰り返し再生した卑猥な姿とのギャップからくる気まずさが、背中をムズムズと奔った。
「薪さん……どうかしました? そんなに見つめられると、剃刀を当てる手が震えますよ」
青木が固い苦笑で問いかけると、薪はハッと我に返ったように瞬きをした。
しかし、どこか頼りなげな裸眼の双眸はまだ、じっと自分だけにまっすぐに向けられている。
「……お前が」
薪が掠れた声で、独り言のように呟く。
「お前が、その年齢 に近づいたのに……最初あれだけ重ねた鈴木の面影が、もう重ならなくなった。でも……」
そう切り出した薪の手が、青木のシャツの袖に遠慮がちに触れた。
「代わりに、僕を愛情深く育ててくれた、父の顔がお前の中に浮かぶ。……怖いほどにな」
薪剛にとっての薪俊は、血の繋がりを超えた、絶対的な愛の象徴であり、家族だ。
青木は髭剃りの手を止め、ゆっくりと薪に向き直った。
ぼやけた視界の中でも、薪が向ける眼差しの熱量だけは肌を刺すほどに鮮明だった。
昨日の薪のWebカメラ越しの表情は、そういうことだったのか。それは、青木を「守るべき部下」ではなく、無償の愛に包まれた「家族」として受け入れたという、沈黙の告白ではないのだろうか。
「父もそうやって、毎朝鏡の前で支度をしていた。そうしているお前の、その目で見つめられると……息ができなくなりそうだ」
溢れ出る感情とともに俯く薪の耳たぶが、みるみるうちに赤く染まっていく。
青木は身支度を放り出して、震える薪の肩を優しく抱きしめた。
「お父さんのこと、大好きだったんですね」
「……うん」
卑猥な妄想も全て忘れて、青木は腕のなかの“子ども”を思い切り強く抱きしめた。
血の繋がりを超えて、これほどまでに無防備に自分を『家族』として、庇護者として求めてくれているのか。
そのあまりの尊さと愛おしさに、青木の胸の奥は、ただただ静かで温かい幸福感だけで満たされていった。
「さあ、薪さん。そろそろ出かけましょうか」
腕の中の愛しい温もりをそっとほどくと、青木は洗面台の上に置いておいた、古い予備の眼鏡へと手を伸ばした。
幼い姪と暮らす習慣で、ゆっくりできる休日の朝も、適度な時間に意識が覚醒する。
しかし今日の青木家の朝は、それ以上に早かった。
居間から漏れてくる賑やかな声に、青木は自分の耳を疑う。
「これ、お口に合うかしら」
「ありがとうございます……梅シロップって、こんなに良い香りなんですね。……ん、スッキリしてて美味しいです」
「そうなのよ。青梅だから爽やかでしょ。これが熟したのだと、もっと濃厚で甘ーくなってねぇ」
「ねぇ、 あとでこれ、舞と半分こしよ♪」
「うん、そうしよう」
「やったあ!マキちゃんと半分こだぁ」
まきさん……だとぉ??
青木はベッドから跳ね起きると同時に手探りでサイドボードの眼鏡を探す。
いや、無いんだった……と、青木はそのまま居間に飛び込んだ。
ぼやけた青木の眼前に広がるのは、朝の柔らかな光が差し込む食卓。
そして、昨夜のうだるような妄想の中で激しく絡み合ったはずの「薪剛」の実物が、さも当たり前のようにようにそこに座している。
「……ま、薪……さん!?」
「おはよう。
「コっ……」
その呼び名は、反則だ。
どこから突っ込んでいいのかもはやわからない。
舞に「マキちゃん」と呼ばれながら自分を「コーちゃん」と呼ぶ薪は、約束もないのに現れて、青木家の中心で笑っている、この状況。
「な……なんで。てか、言ってくだされば空港にお迎えに上がったのに……」
「気遣いは無用だ。母上が梅を分けてくれると仰るから、いただきに上がっただけだから」
「は? 梅って……」
青木の困惑を余所に、おバアちゃんがホクホクとした顔で朝食の皿を並べている。
「いいじゃないの。まあコーちゃんも座りなさいな。今さっき中村のおじさんが梅ヶ枝餅をくれたんよ。娘さんが朝一番で太宰府へ参ってきたんだって」
「朝ごはんの後のデザートだよ。まだ温かいの……マキちゃんと半分こするんだぁ」
薪の隣を陣取った舞は、餅を包んだ両手を温めながら満面の笑顔で言う。
おバアちゃんにとっては、一人息子の想い人で「身内」のように情を注ぎたくなる存在。
舞にとっては、綺麗で優しくて、大好きなコーちゃんとはまた違う、柔らかで華やかで特別な存在。
二人の女性にちやほやと囲まれている薪は、どこか所在なげだが、大切に扱われることを快く受け入れているようにみえた。
青木は、自分の家でありながら、その光景に気圧されて立ち尽くす。
眼鏡のない、すべての輪郭が淡く滲むぼやけた視界。だからこそ、薪の神々しい美しさと舞たちの屈屈のない笑顔が混ざり合う家族像が、水彩画のようになおさら眩しく胸に迫るのだ。
「コーちゃんは眼鏡を新調しに行くんだろう? 僕も用事があるから、一緒に行ってみようかな」
投げかけられる、澄ました薪の言葉。
だが、その声のトーンがわずかに上擦っているのを、青木は聞き逃さなかった。昨夜、画面越しに見つめあった「視覚と聴覚だけの逢瀬」に、この人はどうしても耐えられなくなって、朝一番に飛んできたのではないか――そんな思い上がりに似た甘い予感が脳裏をよぎる。
舞とおバアちゃんは連れ立って、別の約束に向けて出かける支度を始めている。
「眼鏡を見に行こう」と急かされた青木も、洗面所に立って準備を始めた。
(最低だな、俺は。こんなに尊い人を、昨夜卑猥な妄想まみれにして……)
自嘲を噛み締め、洗面台の引き出しを開けると「コンタクトレンズ」の箱に目が留まる。
今夜また
代わりに旧い眼鏡を取り出して、洗面台の上に置く。
「……よし」
顔を洗って、鏡の前に顔を近づけ髭を剃り始める。
と、ふと背後に、気配を感じた。
鏡越しに見える薪の姿はぼやけていて、その表情の細部までは判別できない。
だが、薪は青木の一挙一動を――まるで親の背中を追う子供のように、ぴったりと寄り添ってじっと見上げているのがわかる。
その姿があまりに無垢で幼く見えて、昨夜脳内で何度も繰り返し再生した卑猥な姿とのギャップからくる気まずさが、背中をムズムズと奔った。
「薪さん……どうかしました? そんなに見つめられると、剃刀を当てる手が震えますよ」
青木が固い苦笑で問いかけると、薪はハッと我に返ったように瞬きをした。
しかし、どこか頼りなげな裸眼の双眸はまだ、じっと自分だけにまっすぐに向けられている。
「……お前が」
薪が掠れた声で、独り言のように呟く。
「お前が、その
そう切り出した薪の手が、青木のシャツの袖に遠慮がちに触れた。
「代わりに、僕を愛情深く育ててくれた、父の顔がお前の中に浮かぶ。……怖いほどにな」
薪剛にとっての薪俊は、血の繋がりを超えた、絶対的な愛の象徴であり、家族だ。
青木は髭剃りの手を止め、ゆっくりと薪に向き直った。
ぼやけた視界の中でも、薪が向ける眼差しの熱量だけは肌を刺すほどに鮮明だった。
昨日の薪のWebカメラ越しの表情は、そういうことだったのか。それは、青木を「守るべき部下」ではなく、無償の愛に包まれた「家族」として受け入れたという、沈黙の告白ではないのだろうか。
「父もそうやって、毎朝鏡の前で支度をしていた。そうしているお前の、その目で見つめられると……息ができなくなりそうだ」
溢れ出る感情とともに俯く薪の耳たぶが、みるみるうちに赤く染まっていく。
青木は身支度を放り出して、震える薪の肩を優しく抱きしめた。
「お父さんのこと、大好きだったんですね」
「……うん」
卑猥な妄想も全て忘れて、青木は腕のなかの“子ども”を思い切り強く抱きしめた。
血の繋がりを超えて、これほどまでに無防備に自分を『家族』として、庇護者として求めてくれているのか。
そのあまりの尊さと愛おしさに、青木の胸の奥は、ただただ静かで温かい幸福感だけで満たされていった。
「さあ、薪さん。そろそろ出かけましょうか」
腕の中の愛しい温もりをそっとほどくと、青木は洗面台の上に置いておいた、古い予備の眼鏡へと手を伸ばした。