レンズのむこう

 始まりは、第三管区での何気ない会話だった。

​ 夕刻、MRIモニターの青白い光から天井へと視線を逸らし、眉間を指で揉み解している岡部の仕草を、物珍しげに薪が眺めながら訊いたのだ。

​「どうした? 目にゴミでも入ったのか」

​ あまりにも同世代の共感が欠及した問いかけに、岡部は信じられないものを見るような目を向ける。

​「はあ?アンタ……俺らと同年代でしょうが。お年頃になると、こうなるんすよ。夕方になると細かい画が霞んで敵わんですわ」

​「ふーん……日頃の鍛錬が足りないんじゃないか?」

​「いやいや、これは気合でどうにかなるもんじゃなくて。老化現象なんですって……知ってます?老眼って。視力が良いほど早く進むらしいんで、薪さんも気をつけた方がいいっすよ」

「ふーん」
​ 一旦は鼻で笑って受け流した。が、岡部が一服しに席を外した隙に、手元の書類を前後に動かして、ピントを確かめてみる。と、その時――

​『薪さん!』

​ 机上のPCが自動着信のポップアップ音とともに、薪の鼓動が跳ね上がる。
 福岡第八管区の青木の声だ。
 画面が繋がった瞬間、さらに胸が高鳴る。
 そして、思わず真顔で尋ねてしまう。

​「あ……青木、その顔はどうした」

​『え?……あー実は昼間、橋の上で事件の容疑者と揉み合いになりまして。眼鏡が川に落ちて失くしちゃったんですよね……』

​ 画面の中で苦笑する青木の、メガネなしの笑顔。  
 それを白日のもと真正面で捉えた瞬間、薪は言葉を失った。
 今まで意識したことのなかった、あの絶対的な無償の愛の象徴のような面影が、重なって見えたのだ。
 
 しばらく無言で画面を凝視したままの薪は、急遽襲われた動揺を悟られまいと、ようやく声を絞り出す。

​「無茶はするなよ。……で、見えているのか、その状態で」

​『はい。予備のコンタクトを持ち歩いていたので、助かりました』

​「予備? お前、コンタクトなんて持ち歩いてるのか」

​『え……。あ、ええ、まあ。スポーツをする時とかたまに、使ったりするので……』

​(スポーツだと? ジムに通っているわけでもなければ、舞の運動会の保護者リレーの時も、射撃練習の時も眼鏡のくせに……)

​ 妙な歯切れの悪さを不審に思いつつも、薪はそれ以上の追求はしなかった。
 一方の青木も、映像が繋がった瞬間の自分を見た薪の表情が、凍りついたように静止したのを見逃してはいなかった。

​(薪さんはまだ、俺の顔に……誰かの影を重ねているのかな)

​ 鈴木さんだろうか。それにしては、薪の瞳に宿っていた色はどこか違った気もする。哀切というより、もっと根源的な――愛着のような、ひどく純粋な眼差し。
 妙にほろ苦く、胸の奥が熱くなるような奇妙な焦燥を呑み込みながら、青木は報告を続ける。

​「それで、確保した容疑者に関連して、別件で気になる画を見つけたんです。半年前小倉南区で起きた遺体遺棄事件の被害者のMRIなんですが、この部分を拡大すると……」

​「……」

​「……で、あの、薪さん? 聞いてくださっていますか?」

​「……ああ、聞こえている。小倉南の件は十分に余罪を追及できそうだ。まとめて一課に引き継いしておくんだな」

​「承知しました」

​ 新人時代から変わらない。管区の長となっても猟犬ばりにきく鼻で、鍵の埋まる場所を嗅ぎ付ける青木の捜査を頼もしく思いながら、薪はWeb会議を終了させた。

​ その後も、暗転したモニターに映り込む自分の顔を、しばし見つめている。

​ ――視力が良いほど、早く進む。

 岡部の言葉が、また呪文のように脳裏をかすめた。 
 いや、それよりも……今さっき画面のむこうにいた、自分に向けてあの底なしの慈愛を放つ青木の真っ直ぐな残像が、いつまでも網膜から離れなかった。


​ その日、金曜の夕方。

​「コーちゃん、あついよ!」

​「ごめん舞、もうちょっとだけ我慢して」

​ 青木はいつものように家でおバアちゃんと三人での夕食を済ませ、風呂上がりの舞の髪をドライヤーで乾かしていた。
 ほかほかと湯気を立てている小さな姪の世話は、青木にとって日常の安らぎである。

​ 暑い暑いと、先に涼しいリビングへ走っていく舞を見送り、洗面所の鏡の前に立った青木は、眼鏡のない自分の顔をじっと見つめる。
 ぼやけた視界の向こう側、Webカメラ越しに見た薪のあの硬直した顔が、やけに鮮明に思い出される。

​(……俺の何にそんなに動揺したんですか、薪さん)

​ わからない。が、どちらにしても明日あたり眼鏡を修理して、来週からの仕事に備えなければなるまい。
 出かける際にはスペアの眼鏡を使い、手元に残っている予備のコンタクトレンズは温存しよう。
 これは、スポーツ用なんかじゃない。薪さんと過ごす「あの時間」のためだけに、大切に隠し持っている「秘密兵器」なのだから。

​ 皆が寝静まった深夜、自室に戻った青木は、灯りを消したベッドの中で目を閉じる。
 ざわつく体内の熱。
​ まぶたの裏に呼び起こすのは、情事の際、その網膜へと事細かに鮮明に刻みつけた薪の淫らで美しい姿だ。

 「あの時間」に眼鏡を外してはいるが、ひそかにコンタクトを仕込んで視界をクリアにする理由。
 それはいつだって、あの人の肌の紅潮、昂る反応、涙の粒、シーツを掴む細い指先まで、細部を余すことなく生々しく取り込んで、自分の脳内に独占して記録したいからに他ならない。

​「……は……っ……薪さ……んっ」

​ シーツを握る手に力がこもる。
 
 極限まで解像度を上げて焼き付けた記憶は、自分を慰めるには十分すぎるほどに精細で、生々しい。
 次に会えるのはいつだろう。
 焦れったいほどの渇望を指先に込め、青木は闇の中、愛しい人の残像を力強く抱き締めるようにして――自らの手の内で激しい熱を吐き出した。
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