無自覚温泉宿

 薪の堪忍袋の緒が、静かにプツリと切れた。
​ 闇の中、最短距離で男の顎を撃ち砕こうと、薪が音もなく鉄拳を振り上げた――その時。
 馴染み深い熱を持った大きな手が、薪の手首を空中で静かに受け止めた。

​「すみません。この人、立派な成人で、かつ『本当の警察』ですので」

​ 背後から響いたのは、穏やかだが地響きのように重い青木の声だった。
 いつの間に追ってきたのか、青木が薪の盾となるように立ち、男たちを見下ろしている。
 その瞳には一切の笑みがなく、ただ圧倒的な威圧感で男たちを突き刺していた。

​「執拗な付きまといは、軽犯罪法違反になりますよ。大ごとにならないうちに、お引き取りください」

​ 丁寧な口調とは裏腹に、放たれるオーラは猛犬のそれだ。酔客たちは一瞬で酔いが冷めたように顔色を変え「え、すみません」「いや、そんなつもりは……」と、逃げるように消えていった。 

​ 庭園に、再び静寂が戻る。

 薪は掴まれたままの手首を振り払い、不機嫌そうに顔を背けた。

​「ふん、余計な真似を」

​「……すみません。でも、あんな連中に薪さんの拳を汚させるわけにはいきませんから」

「本気で殴るわけないだろ、寸止めで嚇すつもりだったんだ」

​ そっぽを向く薪の傍らで、青木は落ち着いた様子で辺りを見渡し「こんないい所があったんですね」と、あえて場を和ませるように池へと目を向けた。

​ しばらくの間、二人は並んで月明かりに照らされた庭園や、優雅に池を泳ぐ鯉を眺めていた。

​「……青木」

​ 沈黙を破ったのは、薪だった。

​「僕は……自分のことを、それなりのオジさんだと思っているんだが。さっきの連中や……お前の尋常じゃない嫉妬を見る限り、どうやら世間の認識とはズレがあるようだな」

​ 少しだけ肩の力を抜いた薪の告白に、青木は苦笑して眉を下げた。

​「はい……でも俺も、ちょっと度が過ぎました。心配のあまり熱くなってしまい……反省しています」

​ 殊勝な部下の言葉に、薪はふと口角を緩ませる。

​「……まあ、あんな風に独占欲を剥き出して求められるのも、たまには悪くない」

​「……っ、こっちはもう、ヤキモチは懲り懲りです。勘弁してくださいよ、薪さん!」

​ 青木が心底困ったように訴えると、薪もようやく柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
​ 冷えた薪の身体に、青木は自分の羽織をそっと掛け、そのまま肩を抱き寄せる。

​「戻りますか。……シーツも新しいものにしていますから」

​「それはいいが……」

 薪は素直に立ち上がると、姿勢を正して青木に言い放った。

​「一つ命令だ。僕の身体の不埒な印、翌朝見つかった時にどう言い訳するか、お前が考えろ」

​(やっぱちょっと怒ってるんじゃないか……)

​ 甘い空気を覆してスタスタと先に歩いていこうとする薪を、追いかけて青木が付き添う。
​ 夜風は冷たいはずなのに、寄り添う二人の身体は、熱い交わりの名残も手伝って、互いを温めていた。


​ 翌朝。
 老舗旅館の清々しい広間には、地産地消の海と山の幸がふんだんに盛り込まれた朝食が並んでいる。
 薪は毅然とした態度で席に着いていたが、その首元には隠しきれない微かな痕が残っていた。

​「……薪さん、それ、虫刺されですかね」

「ああ。道後の蚊は、どうやら随分としつこいらしい」

​ ニヤニヤしながら尋ねる小池に、薪は茶を啜りながら平然と答える。
​ 白々しすぎる言い訳に、曽我は噴き出しそうになり、今井は気まずそうに箸を進めながら、誰もそれ以上は追求しなかった。

 この三人は、薪と青木の間に流れる「空気」に、ある程度慣らされている。それを長年温かく、あるいは呆れ混じりに見守ってもきたのだから。
​ だが、新入りのこの男だけは違う。
 昨夜、離れの外で喫煙中に、不機嫌な薪とそれを追う青木をチラリと目撃していた斉藤だ。

​「薪さん、夕べはよく眠れましたか? なんだかお部屋にいやらしい虫がいたとかで……」

​ 斉藤が楽しげに耳を寄せたその瞬間、向かいに座る雄犬の大きな手が飛んできて、ビクリと身を竦める。

​「斉藤室長。宿の手配には感謝していますが、これ以上所長へのプライベートな干渉は、俺が許しませんよ」

​ 斉藤の眼の前の醤油差しを掴んだ青木は身を乗り出して、誰にも聞こえない低い声で釘を刺した。
​ 穏やかな笑みを浮かべつつも、その瞳には昨夜の酔っ払いを前にした時以上に「実力行使」を辞さない光が宿っている。
 さすがの斉藤も、本気になった忠犬の鋭い敵意を察し、苦笑いして両手を上げた。

​​「ははっ、怖い怖い。……所長のガードがコレだから、第九のセキュリティは鉄壁なんですね」

​ 肩をすくめて引き下がる斉藤を横目に、薪は「早く食べろ、出発するぞ」と、澄まして一同を促した。


​ 古き良き温もりに満ちた老舗旅館を後にした六人は、独特の情緒が漂う街の空気を楽しみながら、駅へと向かって歩き出す。

​ 地元の斉藤以外の面々は、明日から復帰する厳しい現実に向けて、既に背筋が伸びている。
​ すっきりした表情の薪の傍らで、青木は甲斐甲斐しくその荷物を肩に担ぎ直した。

​「じゃあ、俺たちはここで。薪さんを松山空港まで送りますので」

​ 電車で帰路に就く今井、小池、曽我、見送りの斉藤に向けて、青木が爽やかに手を振った。

​「空港まではタクシーですよね? お送りできず、すみませんが……」

​ 一応の礼儀として口にした斉藤の両脇から、小池と曽我がすかさず耳打ちする。

​「大丈夫だよ、気にするな」
「あっちの二人は『特別』だから。放っておけばいいんだよ」

​ それを見ていた今井も、「邪魔者は退散だ」とばかりに、先立って駅の方へと歩き出した。

​「あ、では私も駅までお見送りを」

​ 歩き出す一同の最後に残された斉藤は、タクシーに恭しく「姫」を乗せる騎士さながらの青木の背中を、振り返って眺めながら呟いた。

​「……なるほど。これが第九の『トップシークレット』ってわけですか」

​ 走り去るタクシーの排気音が、春の柔らかな空気に溶けていく。
​ 道後の名湯が、その熱を加速させたかもしれない昨夜の「秘密」を思い出しながら、斉藤は愉快そうに肩をすくめ、三人を追って歩き出した。
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