無自覚温泉宿

 関西から中四国の地を揺るがした広域連続殺人事件は、薪の冴え渡る指揮と、管区を跨いだ捜査員たちの緻密かつ粘り強い捜査により、最悪の結末を免れて幕を閉じた。
​ 張り詰めていた緊張がようやく解けたのは、松山東署の駐車場だった。

 夕闇が迫る中、青木と共に署から出てきた薪に、第七管区室長の斉藤が、長い前髪を指先でかき上げながら歩み寄った。

​「薪さん、お疲れ様です。……このまま解散ってのも、あまりに味気ないですよね。道後に私の馴染みの老舗がありまして。週末ですし、もし入れるようなら皆で行きませんか」

​「道後……?」

 不意の提案に、薪が足を止める。

​「ええ。人気宿なので普通なら当日予約は絶望的ですが、私のカオで……もし取れたら、ここは一つ、薪さんのポケットマネーでパーッとやってくれませんかね?」

​(は?……薪さんに奢れ、と!?)

 傍らで聞いていた青木は、斉藤の不遜な物言いにギョッと目を剥いた。
 だが、当の薪は驚いた顔をしつつも、どこか興味深げに斉藤を見返す。

​「ふむ……しかし明日が休日とはいえ、急な話だな」

​「ええ、まあ。でも、事件が解決しなきゃ今頃は全員休日返上だったわけですし。長期戦で連携してくださった今井さん、小池さん、曽我さんも、ちょうど管区内に揃っている絶好のタイミングじゃないですか。……たまには皆で温泉にでも浸かって、日頃の毒を抜きましょうよ」

​ 斉藤は切れ上がった目元に不敵な笑みを浮かべ、確信犯的な手つきで携帯を取り出した。

​「まずは電話してみますね」

​ 斉藤が耳に当てた携帯からは、ほどなくして景気のいい返答が漏れ聞こえてくる。
 手短に通話を終えた斉藤は、白い歯を見せて親指を立てた。

​「バッチリ取れました。離れを貸し切りです!」

​「……いいだろう。斉藤、お前の手際に免じてお代は僕が持ってやる。今夜は一同、道後で泊まりだ!」

​ 薪の男前な宣言に、すぐさま斉藤から第七管区捜査室で待機する室長陣へと連絡が飛んだ。
​ 知らせを聞き、一組織体制時代の仲間である小池と曽我のコンビは「ええっ、薪さんの奢り!?」「明日大雪降るんじゃね?」と顔を見合わせて手を取り合う。
 そんな二人を横目に、冷静な今井だけが「いい大人が揃って温泉旅行なんて」と苦笑していたが、部屋を出るその足取りは、誰よりも軽やかだった。

​ 一人、青木だけが、道後までのタクシーを手配しながら大きな溜息をついている。
 事件に続く事件……何とも言えない不穏な胸騒ぎがしていた。


​ そして、道後温泉。
 重要文化財さながらの格式高い貸切浴場に、男たちの賑やかな声が響いていた。

​「ひゃあ〜っ! 最高ですね! 薪さん!」

 小池が豪快に湯を跳ね上げ、薪の隣にどっぷりと鼻先まで浸かる。

​「こら、小池。はしゃぎすぎだ」

​ 薪は手ぬぐいを頭に乗せ、首まで湯に浸かって機嫌よく目を細めている。
 事件解決の安堵感も手伝い、完全に「オフ」のリラックス状態。湯気に蒸された白い肌は、内側から発光するように透き通り、濡れた睫毛が伏せられるたびに、男臭い空間に不釣り合いな色香を辺りに撒き散らしていた。

​「でも薪さん、本当にお疲れ様でしたよ」

 曽我が反対側から薪の肩に手を回し、揉み解すように力を入れた。

​「お、そこだ。……うまいな、曽我」

​「でしょ! ほら、背中も流しますから洗い場行きましょう。小池、桶!」

​ かつての部下たちに囲まれ、甲斐甲斐しく世話を焼かれる薪は、それを「上司としての役得」とばかりに無防備に受け入れている。
 洗い場に座り、曽我に背を流される薪の姿は、まるで名画のようだった。しなやかな肩や腰の曲線、浮き出た肩甲骨と、上気した美しい肌。

​ 本人は「ああ、極楽だな」と、手ぬぐいで無造作に顔を拭いながらオジさんくさい感嘆を漏らしているが、その圧倒的な無防備さは、傍から見れば致死量の毒に近い。

​ 少し離れた場所で、今井が斉藤に耳打ちした。

​「……斉藤。わざと薪さんを温泉に誘っただろう」

​「ははっ、何のことです? 私はただ、憧れの先輩と裸の付き合いがしたかっただけですよ」

​ 斉藤は端で体を洗いながら、時折、湯気に煙る薪の背中を品定めするように見つめる。
 そして、ふと気づいたその背後から突き刺さっている、爆発しそうなほど鋭い視線を辿った。
 そして格好の酒の肴を見つけたように、愉快そうに目を輝かせた。
​ そう。
 薪を取り巻くその睦まじい光景を、地獄の底から響くような怨念の視線で見つめている大男が、壁際にいたのだ。

​(……小池さん、その手っっ! 曽我さん、くっつき過ぎだろっ……!!)

​ 青木は湯口の陰に大きな身体を小さく潜ませ、膝を抱えるようにして湯に浸かっている。
 立ち上る熱い湯気に巻かれながら、その双眸だけが、飢えた獣の執念を帯びて一点を射抜いていた。
 
 薪が「同じ男同士、隠すものなどない」という、凶暴なまでの『無自覚』を全開にすればするほど、青木の理性の糸は、今にも千切れそうなほど鋭く、張り詰めるのだった。
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