Manual Love Drive
コンクリ造りのガレージの閉ざされたシャッター。
薪はズボンのポケットから真鍮の鍵を取り出して、その鍵穴に差し込む。
カチリ、と硬質な金属音が響き、そのまま両手でゆっくりとシャッターを押し上げると、油気が混じった独特な刺激が鼻腔を打った。
薄暗がりの奥に浮かび上がったのは、シルバーグレイの滑らかな曲線。
「……えっ?」
青木の喉から、短い吐息が漏れた。
そこに鎮座していたのは、アストンマーティン・DB5。かつての映画で伝説のスパイが愛した、圧倒的な気品と重厚感を備えた英国の至宝だった。
「……薪さん、これ……本物、ですか?」
青木が、まるで博物館の展示品に近づくような足取りで、一歩、また一歩と車に歩み寄る。
美しく磨き上げられたフロントグリル。細いスポークが幾重にも重なるワイヤーホイール。そして、使い込まれた風合いを残しながらも、完璧に手入れされた深い赤のレザーシート。
「これは……前の、僕の生家に遺っていたものだ。ここへ来る時、養父に黙ってこのガレージに“遺品”として引き取って……ずっと眠らせていた」
「え、でもそんな、数十年間眠っていたにしては、何だか今にも動きそうな……」
「ああ、先月整備を終わらせて……動くようにしたんだ。好きに触っていいぞ」
「……ええぇ……」
車窓に映り込む青木の呆然とした顔を愛しげに見つめながら、薪は車のキーを渡す。
受け取った銀色のキーを、吸い込まれるように滑らかな鍵穴へ。
ゆっくりと回せば、精緻な歯車が噛み合う感触が伝わり、重厚なロックが静かに解かれた。
「すごい……」
青木は車内を覗き込み、震える指先でフェンダーのなだらかな曲線に触れた。
冷たく硬質な金属の感触。その奥からは、かつてこの車を愛用した男の想いと、それを引き継ぎ現代へと呼び戻した薪との深い絆を感じて取れた。
「……薪さん。ありがとうございます……俺、この感触を一生、忘れません」
「礼を言うのはまだ早い。言っただろ?“動くようにした”と。最高純度のガソリンが満タンに入れてあるのに、見るだけでもう満足なのか」
「ガ、ガソリン……!?」
この時世、ガソリンは超高級品だ。驚きながらも引き寄せられるように運転席に滑り込んだ青木が、細いステアリングを握りしめ、イグニッションキーを回す。
――ズ、ズズ……ッ、ドォォォォォォン……!!
半世紀の眠りを破る咆哮が、コンクリの壁を震わせる。
直列六気筒エンジンの、野太くも澄んだ爆発音。
それは電子音ばかりの現代の都市生活では聴くことのできない、力強い鼓動そのものだった。
「……薪さん、聴こえますか、この音! 生きてる……本当に、生きてるみたいだ!」
狂喜する青木を横目に、薪はガレージの壁に背を預け、腕を組んだ。
エンジンの咆哮に瞳を輝かせ、少年のようにステアリングの感触を確かめている大男。その無邪気な横顔を見ていると、胸の奥が温かいもので満たされるのと同時に、ほんの少しだけ、この銀色の機械に嫉妬したくなる。
「……気に入ったか?」
「はい! いや、気に入るなんてもんじゃなく……一生眺めていられますよ、これ……」
なおもソワソワと車内の計器類を覗き込み、今すぐにでも走り出したそうに身体を揺らしている青木に、薪は笑むように口角を上げた。
「……なら、出かけるか」
「え? どこへ……?」
きょとんとして顔を上げた青木を車から引っ張り出した薪は、有無を言わさぬ足取りで母屋へと戻った。
まずは二人ともバスルームへ直行してシャワーを浴びる。
その後バスタオルを下半身に巻いただけの格好で客間に招き入れられた青木が目にしたのは、長押に掛かった、ラグジュアリーな衣服。
いつの間に仕立てたのか、深いミッドナイトブルーの上質なウールカシミアのアンコンジャケットと、光沢を抑えたアイスグレーのシャツがある。
「薪さん……これ……」
「僕の父の車のハンドルを握るんだ。オーナーに相応しい装いが必要だろう」
そう言いながら薪自身も、既にチャコールグレーのタートルネックに、身体のラインを美しくなぞる茶褐色のハーフコートを羽織る。
二人が並べば、それこそ100年前の映画から飛び出てきたクラシカルなカップルにも見えた。
「でも、どこへ行くんですか。こんな格好をして」
「奥多摩の、標高九百メートルにあるレストランバーだ」
戸惑う青木のネクタイを整えながら、薪は至近距離で微笑んだ。
檜原村の険しい山道を登り詰めた先に佇む、石造りの隠れ家。古き良き峠道の果てにある、星に一番近い特等席――
「予約は二時間後だ。ちゃんと運べよ、名操縦士」
薪の綺麗な指先が、めかしこむ青木の胸板を軽く叩いた。
薪はズボンのポケットから真鍮の鍵を取り出して、その鍵穴に差し込む。
カチリ、と硬質な金属音が響き、そのまま両手でゆっくりとシャッターを押し上げると、油気が混じった独特な刺激が鼻腔を打った。
薄暗がりの奥に浮かび上がったのは、シルバーグレイの滑らかな曲線。
「……えっ?」
青木の喉から、短い吐息が漏れた。
そこに鎮座していたのは、アストンマーティン・DB5。かつての映画で伝説のスパイが愛した、圧倒的な気品と重厚感を備えた英国の至宝だった。
「……薪さん、これ……本物、ですか?」
青木が、まるで博物館の展示品に近づくような足取りで、一歩、また一歩と車に歩み寄る。
美しく磨き上げられたフロントグリル。細いスポークが幾重にも重なるワイヤーホイール。そして、使い込まれた風合いを残しながらも、完璧に手入れされた深い赤のレザーシート。
「これは……前の、僕の生家に遺っていたものだ。ここへ来る時、養父に黙ってこのガレージに“遺品”として引き取って……ずっと眠らせていた」
「え、でもそんな、数十年間眠っていたにしては、何だか今にも動きそうな……」
「ああ、先月整備を終わらせて……動くようにしたんだ。好きに触っていいぞ」
「……ええぇ……」
車窓に映り込む青木の呆然とした顔を愛しげに見つめながら、薪は車のキーを渡す。
受け取った銀色のキーを、吸い込まれるように滑らかな鍵穴へ。
ゆっくりと回せば、精緻な歯車が噛み合う感触が伝わり、重厚なロックが静かに解かれた。
「すごい……」
青木は車内を覗き込み、震える指先でフェンダーのなだらかな曲線に触れた。
冷たく硬質な金属の感触。その奥からは、かつてこの車を愛用した男の想いと、それを引き継ぎ現代へと呼び戻した薪との深い絆を感じて取れた。
「……薪さん。ありがとうございます……俺、この感触を一生、忘れません」
「礼を言うのはまだ早い。言っただろ?“動くようにした”と。最高純度のガソリンが満タンに入れてあるのに、見るだけでもう満足なのか」
「ガ、ガソリン……!?」
この時世、ガソリンは超高級品だ。驚きながらも引き寄せられるように運転席に滑り込んだ青木が、細いステアリングを握りしめ、イグニッションキーを回す。
――ズ、ズズ……ッ、ドォォォォォォン……!!
半世紀の眠りを破る咆哮が、コンクリの壁を震わせる。
直列六気筒エンジンの、野太くも澄んだ爆発音。
それは電子音ばかりの現代の都市生活では聴くことのできない、力強い鼓動そのものだった。
「……薪さん、聴こえますか、この音! 生きてる……本当に、生きてるみたいだ!」
狂喜する青木を横目に、薪はガレージの壁に背を預け、腕を組んだ。
エンジンの咆哮に瞳を輝かせ、少年のようにステアリングの感触を確かめている大男。その無邪気な横顔を見ていると、胸の奥が温かいもので満たされるのと同時に、ほんの少しだけ、この銀色の機械に嫉妬したくなる。
「……気に入ったか?」
「はい! いや、気に入るなんてもんじゃなく……一生眺めていられますよ、これ……」
なおもソワソワと車内の計器類を覗き込み、今すぐにでも走り出したそうに身体を揺らしている青木に、薪は笑むように口角を上げた。
「……なら、出かけるか」
「え? どこへ……?」
きょとんとして顔を上げた青木を車から引っ張り出した薪は、有無を言わさぬ足取りで母屋へと戻った。
まずは二人ともバスルームへ直行してシャワーを浴びる。
その後バスタオルを下半身に巻いただけの格好で客間に招き入れられた青木が目にしたのは、長押に掛かった、ラグジュアリーな衣服。
いつの間に仕立てたのか、深いミッドナイトブルーの上質なウールカシミアのアンコンジャケットと、光沢を抑えたアイスグレーのシャツがある。
「薪さん……これ……」
「僕の父の車のハンドルを握るんだ。オーナーに相応しい装いが必要だろう」
そう言いながら薪自身も、既にチャコールグレーのタートルネックに、身体のラインを美しくなぞる茶褐色のハーフコートを羽織る。
二人が並べば、それこそ100年前の映画から飛び出てきたクラシカルなカップルにも見えた。
「でも、どこへ行くんですか。こんな格好をして」
「奥多摩の、標高九百メートルにあるレストランバーだ」
戸惑う青木のネクタイを整えながら、薪は至近距離で微笑んだ。
檜原村の険しい山道を登り詰めた先に佇む、石造りの隠れ家。古き良き峠道の果てにある、星に一番近い特等席――
「予約は二時間後だ。ちゃんと運べよ、名操縦士」
薪の綺麗な指先が、めかしこむ青木の胸板を軽く叩いた。