2070 薪誕 家族ぐらし

 たっぷり遊んで食事も済ませ、すっかり日が暮れてから、三人は荻窪の薪邸へと戻った。
 ここはかつて、薪が実父とともに成長期を過ごした邸宅。
 愛憎、信頼、疑念など諸々の感情が複雑に絡み合っていたこの場所は、今や、屈託のない笑い声と優しい温もりが溢れる空間に塗り替わっている。

​ 玄関に入って、コートを脱いで、いつもの日常のなかに戻ってくるが、指輪は嵌めたまま、どちらも外そうとはしない。
 手を洗う時も、舞を抱き上げる時も……分かち合った幸福の証は、ごく自然に左手薬指に残したままになっている。


​「父の気持ちが……少し、分かった気がする」

​ リビングで一息ついた時、薪がぽつりと溢した。

「………」

 “父”とは誰のことを指しているのか分からないまま、青木はただ薪の穏やかな横顔を愛しく見つめ返している。
 薪の指には、体温にまったり馴染んだ指輪が、柔らかな灯りを反射していた。

​「愛する者の血を引く子の愛しさは、格別だ。それだけはよく分かる」

​ 薪が続けたその言葉に、青木は息を呑んだ。
 それが、薪が敬愛してやまない「育ての父」への共感だと察したから。そして、その愛する者とは――今、薪の目の前にいる自分のことだろう。

「薪さん……」

 胸の奥にこみ上げる、熱く、言葉にならないほどの感情を、青木はぐっと堪えていた。

「ふふ、寝る前に読む本を選ぶって、言っていたのにな」

​ 薪は、壁面を埋め尽くすリビングの本棚の傍らのソファで力尽きて寝ている舞を、細い腕で器用に抱き上げる。
 そして子供部屋へと続く廊下を、幸せの重みを噛み締めるような足取りで、ゆっくりと歩いていった。

 薪が自らの傷や咎を忘れたわけではないだろう。それは自分も同じだ。しかし、そんな薪がこれほどまで素直に、自然に、自分たちとの時間を慈しんでいる。その奇跡のような事実を前に、青木の心は深い充足感のなかに溺れそうだった。

​ 明後日の火曜、誕生日はこれからだ。
 今度は二人きりで過ごす、新しい一年を祝う夜がやってくる。


 舞をベッドに横たえ、毛布を掛け直してやった薪が、ふぅ……と小さく息を吐いて上体を起こす。
 その隙を突くように、背後から青木が腕を回した。
 不意を突かれた薪の肩が微かに跳ねたが、抗わず大きな胸に背中を委ねる。
 青木は自らの左手を薪の左手に重ねて、指輪の感触ごとそっと包み込み、熱を帯びた吐息と共に耳元で囁いた。

​「本当に……今日一日、夢のようでした」

​ 熱く、震えるようなその声に、薪は小さく頷く。
 細いうなじから漂う清潔な香りと、腕の中に伝わる柔らかな体温。愛おしさが決壊した青木は、そのしなやかな肩を抱き寄せて強引に自分の方を向かせた。

​ 見上げてくる薪の瞳には、いつもの鋭さは微塵もない。熱に潤み、どこか無防備な光が宿っている。

 青木の視線は、薪の薄い唇から白皙の首筋へと滑り落ち、鎖骨のくぼみに吸い込まれた。その動きを追うように、薪の喉仏が小さく上下する。

​「薪さん……あなたという人は……これ以上、どこまで俺を夢中にさせれば気が済むんですか」

​ 感極まった独白と同時に、吸い寄せられるように唇が重なった。
 柔らかな接触は、触れた瞬間、互いの内側を暴き合うような深く甘い沈黙へと堕ちていく。

​(青木……それは僕のセリフだ)

​ 薪の唇がその言葉を紡ぐことはなく、青木の熱に蕩けて蹂躙されていくだけだ。
 吐息と唾液が混じり合い、大きな手に包まれた頬から顎の先まで、まるで食んで溶かしてしまわんばかりの貪欲な口づけ。
 揉みくちゃにされながら、心まで甘く溺れていくなかで、薪はふと恐ろしくなった。
 
 家族として過ごす穏やかな「今日」でさえ、これほどまでに自分を乱すのだ。
 二人きりで迎える明後日の夜――その向こう側に待つ未知の情熱に、薪は目眩に似た戦慄を覚え、ただ強く青木の背中にしがみつくしかなかった。
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