☆2065←→2064 手紙。

うっ、これはもしやいつもの淫らな夢……だったのか!?

病院のベッドで飛び起きた青木は、痛みが走る脇腹を庇いながら辺りを見回す。
違う。夢のようだが、多分夢じゃない。
高鳴りがやまない胸。火照った頬に手を当てる。
俺は薪さんと、実体のない世界で出逢ったのだ。
我を忘れて薪さんと抱き合い、果てにはあんなことまで―――
自分が触れた薪の肌や柔らかな髪の感触。
そして、薪の手と口の愛撫のなかで達してしまうまでの一部始終を、まだ覚えている。
不思議な逢瀬の記憶は一旦消えたとしても、薪だけの秘密のままでは絶対に終わらせない。
薪と家族になって、深い絆で結ばれればいつか、薪の口から“あの日”のことが当たり前に漏れる日がくるのだ。

“二度と来るな”
あの人の強がっていた口調を思い出せば、夜の闇のなか震えるやりきれない孤独と喪失に、一刻も早く寄り添いたくて胸が疼いた。

そういえば、手紙はどこだ?

ベッドや辺りを視線で探るが見当たらない。
床に落ちてないか下を覗こうとして「イタタ」と顔を歪めて姿勢を戻した。
ちょうどその時「青木さん、失礼します」と、看護師の声が聞こえた。

「ちゃんと安静に、気をつけてくださいよ」
バイタルチェックに引っかかりそうな高い心拍数に、ベテラン看護師が眉間に皺を寄せて青木をじろりと見る。

「ハイ、すみません」

頭と一緒に視線を下げた青木は、視界に入った胸の名札を二度見した。愛想少なめ、何なら怖めの彼女こそが鬼束オニヅカさんだったのだ。
薪の言いつけどおり、鬼束さんの事務的かつ的確な仕事ぶりにお世話になりながら、二日が過ぎた。
そして予定通り、退院の日となる。


「すまんな、青木。薪さん今日、東京拘置所に例のタジクの接見に行ってて……」

「岡部さん、いいんですよ。すみません、気を遣っていただいて」

見送りをすっぽかす薪にはハラハラするが、何より本人の吹っ切れて爽やかな表情に救われる。
新人時代から世話をした先輩の欲目かもしれないが、今回のことでも青木はまた一回り逞しくなったように思う。

「まいちゃーん、オジサン行くよー!ホントに遊びに行っちゃうよー!」

小さくなるタクシーに手を振り見送る岡部の携帯が振動する。
取り出そうとジャケットの内ポケットを探った時、青木に渡したはずの手紙がまだ入ってるのに気づく。
アレ?どうしたんだ?俺、手紙また受け取ったんだっけか?



一方、2064年に青木から受け取った手紙が引き金となり、青木との入れ替わりと不思議な逢瀬を経験した薪は、その9ヶ月後に帰国し、科警研所長に着任した。

独立組織として機能していた第九も、所長の席に薪が来れば動きも変わる。
薪の帰任に水を得た魚のような八人の室長たちのなかで、所長に着任後3ヶ月経ってようやく対面できた輩がいる。
第八管区の末っ子だ。
仕事ついでに会おうと試みても、その上京の機会をことごとく所長自身に潰されていたせいだ。

しかし打たれ強く忖度もせず私用でやってきた青木に、薪はとうとう向き合わざるを得なかった。
青木もある意味強者だ。面と向かって遠ざけられてるのに怯みもしない。

「手紙、読んでいただけましたか?」

「手紙……?」

「ええ、ちょうど一年ほど前、薪さんがパリにいらっしゃる時に……」

その言葉に薪は固まる。
とうとう時差が埋まろうとしている。つまり自分の住む世界の青木にも“あの日”が近づいているのだ。

“そうはさせません。俺が戻ってからあなたと本当にそういう関係になれば、秘密にする必要はなくなるでしょう?”

一年後の世界から来た青木の真顔は未だ自分の中に鮮明に刻まれている。
自分だけの秘密でいい、なんて上辺だけの綺麗事をひそかな拠り所にしてきたことこそ、誰にも知られたくない事実だ。

ガリーナ・ツォイの失踪を辿り代官山のフレンチレストランのシェフ、タジク・シャマールを追い始める。タジクへの疑惑が色濃くなる中でのユリア・ツォイの失踪、そしてカザフスタン大統領食事会へ。新聞でしか知らなかった断片が急速に繋がり、この身を駆り立てていく。

その間手紙のことなど考える暇はなかった。
ただ“あの日”になって、身に沁みて感じるのだ。
離れていた二年の間に青木が遂げた進化を。自分だけが刺されて倒れて守った僕の立場と。
そして、誰より青木の身を案じてやまないこの気持ちを―――

一年前に一日過ごしたことのある病室で、昏睡する青木を見下ろす薪は、思念で呼びかける。

青木、満身創痍のお前を酷使するのを許せ。

お前の想いを頼りに僕は生きてきた。だから、行ってくれるか?また僕を救いに―――

薪の唇が微かに動き、声にならない声が漏れた。


“青木”

“なぜ気づかない”

“お前が一番手のかかる家族だ”


そして手紙が、薪の手を離れて青木の眠る布団の上に落ちた。
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