☆2065←→2064 手紙。

昏睡する青木の掛け布団の上に残された手紙。
そこへ残した薪の“想い”が、一年前のパリの夜の浅い眠りを彷徨う薪の意識と結び合い、時空を飛びこえ連れてきてしまった、らしい。


あ、バカっ。岡部がなんで“それ”を?
持っていくな。誰か止めろ……クソっ、アイツはどこにいるんだ!?

「……あおき!」

岡部が出ていくドアが閉まる音が、小さく響いた病室で。叫んだつもりの薪の声は、喉の奥で掠れた吐息にしかならない。
それでもわかる。
その声は紛れもなく“青木”のものだ。
わからないのは、この状況。
目を開き、身体を起こそうとするが、起き上がれない。
それどころか、動くことさえままならない。

「……くっ」

ぼやけた視界に映る白い天井と壁。
身体に繋がる管。
そして、脇腹で異様に疼く熱。
ここはどこだ?
そして僕は……?
ノックが聞こえて「青木さん、失礼します」と女性の声がした。

「お加減どうですか〜?鎮痛剤入れますね」

「…………」

近づいてきて点滴を取り替える白衣の若い女性の香りに、ふわりと鼻先を擽られてハッとする。
こんな……雄の嗅覚は、いつもの自分には無いものだ。

“やはり僕は青木・・なのか“

あまり青木こっちに近づくな!とばかりに看護師を険しい顔で睨みつければ、蒼ざめて後退りされる。
我に返り、引きつった笑みで取り繕うが、もう手遅れだ。

「すみません、失礼しましたっ」

逃げるように立ち去る看護師の背中に、薪は心の中で謝罪する。
すまない、貴女は悪くない。雌の匂いを嗅ぎとる青木が悪いんであって……いやそれだって自然なことだろう。むしろ健全な20代男性がフェロモンに気付かない方が異常じゃないか。

悶々としながら俯く視線が、布団を握りしめる手にふと釘付けになる。
それは青木の大きな手だ。
開いて天井にかざし眺めていると、なぜか心がすうっと落ち着いていく。
その手をそっと胸元に置いて、薪はゆっくり青木の目を閉じた。

自分の身に何が起こっているのかわからないが、とにかく青木が負傷して入院中なのは紛れもない事実。だとしたら、ゆっくり養生し回復につとめるのが、今の自分がやるべきことに違いない、と腹を決めたのだ。



「青木、入るぞ」

病室のドアをノックする音とともに、岡部の声に呼ばれる。
青木として一日中眠っていた薪は、聞き慣れた部下の声に目を開いた。
床頭台のデジタル時計はもう夕刻を示していて、青木でいる方が何かと気楽な薪はいつになくよく眠れた気もする。

「どうだ、大丈夫か?」

「え?ああ……はい」

「ならよかった。もうすぐご家族も到着されるぞ。今はとにかくゆっくり……」

「わかった。それより岡部」

「!?」

「……さん」

呼びにくいな。と思いつつ、若造からの呼び捨て未遂に目を丸くする岡部に、メガネを取ってこさせる。

「色々お世話かけてすみません。事件の容疑者はどうなりました?」

「へっ?」

しまった。動揺する岡部から青木まきは目をそらす。

「おい。これは“事件”じゃなく“事故”ってことにして、良かったんだよな?」

「……ええ、そういえばそう、でしたね」

ダメだ。何の手がかりもないのに状況を聞き出すのは困難で。今の岡部の反応から、これを事故にせざるを得ないやんごとなき事情の存在は察した程度だ。

「お前なあ、こんなときくらい仕事の話はやめとけ」

「ですね、そうします」

心配性のヒゲ面を見て頷きながら、コイツはいいヤツだと改めて思う。
部下としての信頼は元々厚いが、後輩として接する安心感も相当なものだ。

そんな岡部は、さっきから訝しげな顔で、ちらちらとこっちを見てくる。
いつもより眼光が鋭く、態度がふてぶてしい青木を、なんとなく不審がっているようだ。

「俺ちょっとここで飯食っていいか」

「ええ、勿論どうぞ」

「売店行くが、ついでに欲しいものあれば…」

やっぱりコイツ、なんかおかしい。と、返ってきた答えを聞いた岡部は首をひねる。
頭は打ってないはずなんだがなぁ……。

「じゃあ、新聞をお願いできますか」

だなんて、青木らしからぬリクエスト。
キリッと落ち着き払ったその声色に、威厳すら覚えるのだから。
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