2067 Baby Panic!

 解錠された部屋の中で、青木の目に飛び込んできたのは、凄惨な事件現場……ではなかった。 
 そこには、出会って以来一度も見たことがないほど、完全に困惑しきった薪の姿があった。

​「あ……青木……頼む、こいつを……どうにかしてくれ……」

​ 美しい眉間に深い皺を刻み、しなやかな腕をぎこちなく前方へと突き出している。その先端に、まるで不発弾のように危うく“保持”されていたのは――新たな人の気配に一瞬だけ動きを止めこちらを見つめている、泣き顔の、一歳に満たない赤ん坊だった。

​「……ま、薪さん?」

​ 乱れた髪に、乱暴に開いたままのシャツの襟元。そして絶望的な形相で赤子を抱える最愛の人。

​(いつの間に……まさか、隠し子……!?)

​ 青木の脳裏に、凄まじい速度で複雑な思いが駆け巡る。相手は一体誰だ? いや、誰であろうと関係ない。薪と共に生きると決めた俺が、この子をこれからずっと、責任と愛情を持って一緒に育てる。
 それだけの覚悟がこの瞬間、一気に固められていく――

​「その子は……ま、薪さんの……お子さん……でしょうか?」

​「馬鹿言え! 黒田家のひとり娘、日向ひなただ! ……夫婦揃って季節外れのインフルエンザで倒れたらしく、母親から『保護してくれ』と泣きつかれたんだ」

​「母親……って、雪子さんの……ああ、そうか。びっくりした……」 

​ 発端は、小さな日向が保育園でウイルスを拾ってきた先週のこと。子ども自身は軽症でも、同居する保護者への感染力が莫大なのは、青木も身をもって知っている。
​ いや、それよりも何よりも……この状況が、自分に隠されていた薪の“秘密”ではなかったという安堵のあまり、青木はふらついてその場に膝をつきそうになる。
 そんな大人たちを余所に、小さな日向の泣き声はどんどん大きくなっていく。

​「ハッ、薪さん、その子一旦俺に貸してください。……失礼します」

​ 上着を脱ぎながら立ち上がり、腕まくりをした青木は、丁寧に手を洗うと、薪の腕から小さな体を慣れた手つきで受け取った。

​「よしよし、日向ちゃん。どうしたのかな?」

​ 青木が温かで清潔な指先をそっと口元に寄せると、日向はその指を咥えようと小さな口を開けた。

​「……オムツは、さっき替えたばかりだぞ」

​ ようやく危機的困惑から解放された薪が、丸い目で覗き込んでくるのがたまらなく可愛い。

​「薪さん、これ、きっとお腹が空いているんですよ」

​「……そうなのか?ミルクなら、母親が置いていった一式がそこに……」

​「ありがとうございます」

​ 受け取った哺乳瓶セットを使い、青木は手際よく調乳を始める。かつて姉夫婦を亡くした後、不器用ながらも必死で舞を育て上げた経験が、しっかりと身体に染み付いているのだ。

​「はい、お待たせ。美味しいですよ」

​ 青木の逞しい腕の中で、日向が夢中になってミルクを飲み始める。先ほどまでの大騒ぎが嘘のように、静まり返った部屋には「んくっ、んくっ……」という規則正しい健やかな音だけが響き渡った。

​「……よかったな、日向。頼りになるのが来てくれて」

​ 薪が心底安心したようにポツリと漏らしたその言葉に、青木の心がじんわりと温まる。
 か弱い命を、最愛の人と分かち合いながら守っている。その事実が、たまらなく幸せに感じられた。

​「さあ、薪さん。日向ちゃんは落ち着いたら俺がお風呂に入れるんで、薪さんから先にどうぞ」

​「いや、少し休ませてくれ……あと、こいつの寝床を……」

​ 相当に精神をすり減らしていたのだろう。うわ言のようにそう呟きながら、ふらふらと寝室へ消えていく薪の背中を、青木は慈愛に満ちた目で見送った。

​ やがて、お風呂を済ませた日向を静かに寝かしつけると、まさに嵐が去った後のような、平和な静けさが部屋を包み込んでいる。

​ 普段の、薪が一人で暮らしている時の無機質な静寂とは違う。温かく甘い、なんとも言えない湿り気を帯びた――見えない賑やかさが、ただ一時的に停止しているだけのような、愛おしい無音状態。

​ ホッと一息ついた青木がそっと寝室を覗くと、広いベッドの一角に即席で作られたスペースで眠る日向の傍らで、薪がスーツ姿のまま糸が切れたように深く眠り込んでいた。
​ 青木は、その清らかで幸福な光景に思わず目を見張る。 
​ それはまるで、地上に舞い降りた美しい天使が羽を休めているかのように見えたから。
​ 
​ 近づいてその顔を覗き込んでも、一国の捜査機関を率いる科警研所長の面影はない。
 眉間の皺は綺麗に消え去り、あどけなく閉じられた瞼。薄く開いた唇からは、穏やかな寝息が規則正しく零れている。

​(……相当、お疲れだったんだな)

​ 青木は愛おしさに苦笑しながら、そっとその華奢な肩に手をかけた。
​ いつもなら自分から連絡することさえ躊躇ってしまうような、雲の上の人。けれど今、この人は確実に自分を頼り、目の前でこれ以上ないほど無防備な姿を晒してくれている。

​「……薪さん。せめて、ネクタイだけでも外しましょうね」

​ 高鳴る鼓動をどうにか抑えながら、青木は眠る薪の首元へと手を伸ばした。
​ 細いネクタイをそっとほどき、堪らなくなって、シャツの白いボタンに指を掛ける。
​ 一つ……また一つと、静かにボタンを外していき……ハッとして手を止めた。もしもこのまま、自分の指先がその奥の肌に深く触れてしまったら、この完璧な美を壊してしまうのではないかという畏れ。それと同時に、今すぐすべてを奪いたいという熱い欲求が、青木の中で激しく葛藤しながら、燃え上がっている。

​ 父の日を控えた、特別な週末。
​ 大人二人と幼子一人。形を変えた三人の「家族」の時間が、こうして静かに幕を開けた。
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