2067 Baby Panic!

​「……お前、ッ、勝手なことをっ……!!」

​ 土曜日の朝。それまで静まり返っていた寝室に、薪の悲鳴に近い怒鳴り声が響き渡った。
​ ベッドの上で跳ね起きた姿勢のまま、薪は自分の胸元を愕然とした表情で見下ろしている。昨夜まで身に纏っていたはずのスーツは跡形もなく、代わりに肌馴染みの良い柔らかなパジャマに身を包まれていたからだ。

​「おはようございます、薪さん。……仕事着のままでは疲れが取れないと思いまして。チェストを開けたら、すごく気持ちよさそうなパジャマがあったので、つい」

​ 小さな日向を器用に抱っこしながら寝室に顔を出した青木が、朝の柔らかな光を背負って爽やかに微笑んだ。

​「つい、で脱がせていいものではないだろう! お前……いや、ぼくは……僕は一度も目を覚まさなかったのか!?」 

​「はい。お着替えさせている間も、可愛い寝息を立ててぐっすりでしたよ」

​「っ……!」

​ 薪は一瞬で顔を真っ赤に染め、絶句したままシーツへと沈み込む。部下に無防備な裸体を晒してしまったという羞恥心もさることながら、他人の気配に対してこれほど無警戒に、深く熟睡してしまった自分自身に、何より驚愕していたのだ。

​(……ありえない。この僕が、他人の前でこんな……)

​ それは単に“信頼している”という言葉だけでは片付けられない、未知の安らぎによって、自らの心身が奥深くから浸食されている証のようにも思えた。


​ ダイニングでは、日向の朝食タイムの準備が着々と進められている。
​ 雪子から預かった離乳食パウチの成分表を、まるで捜査資料のように真剣に見つめながら、薪が今回のメニューを吟味している。

​「……うん、このパウチはビタミンとタンパク質の含有比率が理想的だが、塩分濃度がコンマ数パーセント高いな。それに比べて、こちらの野菜おかゆは……」

​「薪さん、ほら、日向ちゃんが口を開けて待ってますから。朝は軽めで彩りのいい、その野菜のおかゆにしましょう」

​ 青木に促され、薪は言われた通りに野菜粥を器にあけてレンジで温めた。それから、顕微鏡でも扱うかのような慎重な手つきで、小さなスプーンを日向の口元へと運ぶ。

​「いいか日向、よく噛んで食べろ。……あ、こら、吐き出すな」
​ 
​「薪さん、単にベーってしたいお年頃なんですよ。……ほら、ちょっと貸してみてください。日向ちゃん、あーん」

​ 青木が代わって差し出したスプーンを、日向は素直にコクンと飲み込んだ。その瞬間、日向が“おいしい!”とばかりにパッと顔を輝かせたのが可愛くて、今度は薪が再び匙を奪い返す。そして、見よう見まねで優しく口へ運ぶと、今度は次から次へと夢中で飲み込んでいった。
​ それを見た二人は思わず顔を見合わせ、言葉もなく自然と微笑み合う。

​ カーテンを大きく開けたダイニングの窓の向こうには、初夏の陽光が眩しく降り注ぐ、抜けるような青空が広がっている。

​「薪さん。あそこの公園……ちょっと行ってみませんか?」

​ 高層階の窓から、青木が鮮やかな緑に彩られた美しい区画を指差した。
​ 薪も、その提案に素直に頷いた。

​ そうと決まれば、雪子から渡された育児セットのカバンを探り、日向をお出かけ着に着替えさせる。
 そして手慣れた様子で抱っこ紐を身に着けた青木とともに、三人で表へと繰り出した。

​ 薪は、まるでティーンエイジャーのようなキャップを深く被り、薄手のパーカーにジーンズという、カジュアルな軽装だった。対して、上司からの呼び出しに一目散に駆けつけてきた青木は、ジャケットこそ脱いでいるものの、シャツにスラックスという、いかにも「非番の捜査員」といった出で立ちだ。

​ すらりと背が高くスマートな青木と、中性的で浮世離れした美貌を持つ薪。その二人が小さな赤ん坊を連れて並んで歩く姿は、否が応でも街ゆく人々の目を引いた。

​「ねえ見て、あの二人……めちゃくちゃカッコいい……」

​「芸能人かな? あの綺麗な人、どっかで見たことある気がするんだけど」

​ すれ違う人々が思わず漏らす感嘆の声に、青木は誇らしげな面持ちで、隣の薪へと視線をやる。当の本人はといえば、周囲からの羨望の眼差しなど一ミリも気に留めてない様子だ。それどころか……
​ 
​「青木、日向の頬が心なしか赤いぞ。紫外線対策は大丈夫なのか? 出発してからもう一時間が経つが、日焼け止めを塗り直さなくていいのか。それから、この風……少し冷えないか?」

​「薪さん、それさっきから五分おきに言ってますよ。大丈夫ですって、日向ちゃん、こんなに気持ちよさそうな顔をしてるんですから」

​ 眉をひそめながら、心配そうに抱っこ紐の中を何度も覗き込んでくる薪の姿は、まるで「過保護すぎる新米ママ」のようで、青木は愛おしさに目を細める。
​ 
​ 梢を優しく揺らす風が、初夏の青葉の瑞々しい香りを運んでくる。
​ ふと薪が差し出した白い指先を、日向が小さな手でぎゅっと強く握り返した。その瞬間、薪の口元にふわりと、この上なく柔らかな本物の笑みが浮かぶ。
​ 
​ 日頃の殺伐とした激務をすべて忘れさせるような、穏やかで美しい土曜日の午後。
​ 青木は、隣を歩く愛おしい「家族」の姿を、眩しさに目を細めながら、いつまでも愛おしそうに視線で追い続けていた。
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