カーミングシグナル
急な雨を折りたたみ傘でしのぎながら、半月ぶりの荻窪の我が家へ帰り着く。
身体の割にサイズの小さな傘がスーツの肩先を濡らしているが「内ポケットの中の物」さえ守られていれば、青木にとっては充分だった。
「ただいま……わっ!」
廊下を駆ける爪音とともに、真っ先に現れたのは茶色い毛むくじゃらの塊だ。
玄関で脱いだ靴を揃える青木に勢いよく体当たりしてきたそれ は、初対面の大型犬。
「ルカ! カーム!……お座りっ」
尻尾を振りながら大型の男によじ登り、ベロベロと顔を舐めていたルカは、希の命令を聞くと、大人しく廊下に降り立って拙いお座りをする。
なかなかしつけの行き届いた大きな仔犬だった。
飼い始めて真っ先にママが「カーム(落ち着け)」を教えた理由を肌身で実感した希は、その絶大な効果に呆気にとられて立ち竦んでいる。
パパは動物に異様に好かれるからな……と愛しげな笑みを浮かべながら、魔法のようにすんなりルカに馴染ませたママの命令 。
その的確な読みに裏打ちされたパパへの愛情の深さには、8歳の子どもなりに感服しかない。
「希、ただいま。ルカもはじめまして」
仔犬から解放された青木は、屈んだ姿勢のまま希と目線を合わせて頭に手を置いた。
ルカにも挨拶を忘れないパパの優しい声が好き過ぎて、希は身震いする。
「おかえりなさい……あ、パパ、そのまま待ってて」
希は踵を返して、洗面室に駆け込むとタオルを手に戻って来る。
薪そっくりの親切で優しい行動に目を細めた青木は、屈んだまま動かず待っている。
希は背伸びして青木の背や肩の水滴をタオルで丁寧に拭ってくれたのだ。
「ありがとう、希。パパからもこれ……」
青木は堪えきれずに、内ポケットからプレゼント取り出して手渡した。
「ありがとうございます。これってもしかして……」
「うん、こないだ約束したやつだよ」
「やった!向こうで開けてみていい?」
「もちろん」
自室の勉強机に座って包みを開けた希は、目を輝かせる。小型のボードに、加速度センサー 、バッテリー、充電制御モジュールには保護回路もちゃんと付いている。
これは“自作首輪”のパーツだ。
4月にルカを飼い始めた希が、位置と動きを追跡できるシステムを首輪に組み込みたくて、ビデオ通話でパパに連日相談を続けていた。
文系卒のパパだったが、持ち前の頭脳と仕事で鍛えた知識でしっかり応え、子どもの日の今日にあわせて、お誂え向きのパーツをプレゼントしてくれたのだ。
「ボードはGPS内蔵で良いのがあっただろう。ソフト側とスマホの連携もこの連休に仕上げちゃおう。ケースはあとで希の設計したのを3Dプリントしようね」
「うん!パパ、ありがとう!」
希がパパに抱きつくと、一緒にルカも飛びついてくる。その勢いに驚きながら、希はまた「カーム」と叫ぶ羽目になる。
「ルカって名前はね、舞ちゃんとアルマの三人で決めたんだ。ドイツ由来で“光をもたらす者”って意味なんだよ」
「そうか、すごくいい名前だね」
アルマはヨン・イヴァルの5歳の娘だ。
舞と希が離れて暮らすようになって4年半経つが、荻窪と福岡の行き来はもちろん、オンラインのやりとりも頻繁で。そこにアルマが加わることも今でもたびたびあるのだ。
「しかしママもよく決断したなぁ」
「うん、ていうか舞ちゃんが押し切ったんだよ」
「は? 何で舞が……」
「来年自分が面倒を見るから、ってさ」
「来年、て……」
青木はため息をつく。
今年6年生の舞が、一人で荻窪 に遊びに来ていた春休みに、ルカはやってきた。
舞は中学になったら荻窪に住んで、東京の私学に通うつもりでいる。とはいえ受験はまだ9ヶ月先のこと。なのに、三人ときたら揃いも揃って何の疑いもなく合格前提で話をどんどん進めているのにはさすがに呆れる。
「パパにも相談したかったんだけど、沖縄の事件でヘリに乗ってて連絡取れなくて……」
「いいよ、それに関して異存はないから」
決断を先延ばしにするという選択肢はなかったのか、なんて訊くだけ無駄だろう。
犬を飼いたがってる舞をつれてブリーダーの家に遊びに行く、と聞いた時点で腹を括ってはいた。
しかもそこは鼓海さん姉妹とも旧くから親交があるブリーダー。昔、薪家で飼ってた犬も、妹の琴海さんが一目惚れして連れ帰ってきたといういわくもある(と涼から聞いていた)だけに、尚更同じことになりかねない、と――
「パパ、お風呂は?」
「ああ、後で入ろうかな」
希の部屋の隣にある自室で脱いだジャケットを掛け、青木はダイニングに歩いていく。
途中、覗いた仏間の澤村さんの仏壇が固く閉ざされている異様さに気づいて立ち止まる。
「あ、ご飯もあるよ」
「ありがとう、でも先にママをみてくるよ」
青木はついてこようとするルカを希の元にステイさせ、奥の部屋に向かって襖越しに「薪さん」と、優しく声をかけた。
身体の割にサイズの小さな傘がスーツの肩先を濡らしているが「内ポケットの中の物」さえ守られていれば、青木にとっては充分だった。
「ただいま……わっ!」
廊下を駆ける爪音とともに、真っ先に現れたのは茶色い毛むくじゃらの塊だ。
玄関で脱いだ靴を揃える青木に勢いよく体当たりしてきた
「ルカ! カーム!……お座りっ」
尻尾を振りながら大型の男によじ登り、ベロベロと顔を舐めていたルカは、希の命令を聞くと、大人しく廊下に降り立って拙いお座りをする。
なかなかしつけの行き届いた大きな仔犬だった。
飼い始めて真っ先にママが「カーム(落ち着け)」を教えた理由を肌身で実感した希は、その絶大な効果に呆気にとられて立ち竦んでいる。
パパは動物に異様に好かれるからな……と愛しげな笑みを浮かべながら、魔法のようにすんなりルカに馴染ませたママの
その的確な読みに裏打ちされたパパへの愛情の深さには、8歳の子どもなりに感服しかない。
「希、ただいま。ルカもはじめまして」
仔犬から解放された青木は、屈んだ姿勢のまま希と目線を合わせて頭に手を置いた。
ルカにも挨拶を忘れないパパの優しい声が好き過ぎて、希は身震いする。
「おかえりなさい……あ、パパ、そのまま待ってて」
希は踵を返して、洗面室に駆け込むとタオルを手に戻って来る。
薪そっくりの親切で優しい行動に目を細めた青木は、屈んだまま動かず待っている。
希は背伸びして青木の背や肩の水滴をタオルで丁寧に拭ってくれたのだ。
「ありがとう、希。パパからもこれ……」
青木は堪えきれずに、内ポケットからプレゼント取り出して手渡した。
「ありがとうございます。これってもしかして……」
「うん、こないだ約束したやつだよ」
「やった!向こうで開けてみていい?」
「もちろん」
自室の勉強机に座って包みを開けた希は、目を輝かせる。小型のボードに、加速度センサー 、バッテリー、充電制御モジュールには保護回路もちゃんと付いている。
これは“自作首輪”のパーツだ。
4月にルカを飼い始めた希が、位置と動きを追跡できるシステムを首輪に組み込みたくて、ビデオ通話でパパに連日相談を続けていた。
文系卒のパパだったが、持ち前の頭脳と仕事で鍛えた知識でしっかり応え、子どもの日の今日にあわせて、お誂え向きのパーツをプレゼントしてくれたのだ。
「ボードはGPS内蔵で良いのがあっただろう。ソフト側とスマホの連携もこの連休に仕上げちゃおう。ケースはあとで希の設計したのを3Dプリントしようね」
「うん!パパ、ありがとう!」
希がパパに抱きつくと、一緒にルカも飛びついてくる。その勢いに驚きながら、希はまた「カーム」と叫ぶ羽目になる。
「ルカって名前はね、舞ちゃんとアルマの三人で決めたんだ。ドイツ由来で“光をもたらす者”って意味なんだよ」
「そうか、すごくいい名前だね」
アルマはヨン・イヴァルの5歳の娘だ。
舞と希が離れて暮らすようになって4年半経つが、荻窪と福岡の行き来はもちろん、オンラインのやりとりも頻繁で。そこにアルマが加わることも今でもたびたびあるのだ。
「しかしママもよく決断したなぁ」
「うん、ていうか舞ちゃんが押し切ったんだよ」
「は? 何で舞が……」
「来年自分が面倒を見るから、ってさ」
「来年、て……」
青木はため息をつく。
今年6年生の舞が、一人で
舞は中学になったら荻窪に住んで、東京の私学に通うつもりでいる。とはいえ受験はまだ9ヶ月先のこと。なのに、三人ときたら揃いも揃って何の疑いもなく合格前提で話をどんどん進めているのにはさすがに呆れる。
「パパにも相談したかったんだけど、沖縄の事件でヘリに乗ってて連絡取れなくて……」
「いいよ、それに関して異存はないから」
決断を先延ばしにするという選択肢はなかったのか、なんて訊くだけ無駄だろう。
犬を飼いたがってる舞をつれてブリーダーの家に遊びに行く、と聞いた時点で腹を括ってはいた。
しかもそこは鼓海さん姉妹とも旧くから親交があるブリーダー。昔、薪家で飼ってた犬も、妹の琴海さんが一目惚れして連れ帰ってきたといういわくもある(と涼から聞いていた)だけに、尚更同じことになりかねない、と――
「パパ、お風呂は?」
「ああ、後で入ろうかな」
希の部屋の隣にある自室で脱いだジャケットを掛け、青木はダイニングに歩いていく。
途中、覗いた仏間の澤村さんの仏壇が固く閉ざされている異様さに気づいて立ち止まる。
「あ、ご飯もあるよ」
「ありがとう、でも先にママをみてくるよ」
青木はついてこようとするルカを希の元にステイさせ、奥の部屋に向かって襖越しに「薪さん」と、優しく声をかけた。