カーミングシグナル

 襖の向こうから薪の返事はない。

「入りますよ」と声をかけても拒否されないから、勝手に開けて中に入る。が、すぐに足が止まった。

 膝を抱えて蹲る薪がいたからだ。それもベッドの上でもなく床に。
 虚ろな目が、部屋の隅に置いてある立方体の桐のキャビネットと、そこに置かれた両親の写真を凝視していた。
 その異様さは仏壇を閉ざされた澤村さんも関与するものだと青木は何となく勘づく。

「……希は?」

「自分の部屋にいますよ」

 そもそも自分はその希に呼ばれて来たのだ。
 5月5日は薪の両親の命日であることは、過去の事件を通して知っていた。さらにはそれが薪の8歳の年に起きた事件で、今年は希が同じ8歳であることも。
 だから特に気に掛けていたのだ。
 このところ毎日、ルカの首輪のパーツの話をしながら、希からママの様子を逐一聞き出していた。
 それでなんとなく今夜は自分がこの家にいたほうがいいような気がして帰ってきたのだ。

「だったらあっちへ行け。お前は希についていればいいんだ」

「大丈夫、希にはルカがいます。だからあなたには俺が……」

 膝をついて両手を差し伸べると、強気な言葉とはうらはらに、こどもが抱っこをせがむように両腕でしがみついてくる。

「……まきさん」

 抱き上げて、きつく結んだ冷たい唇をほどいて温めるように、唇を重ねた。

「……ん……ふ……」

「一緒に行きましょう」

「っ……どこへ……?」

「俺の部屋へ。ご両親も皆一緒に、希の部屋も隣ですし」

 幾度となく重ねたキスで頰に赤みがさした薪を床に降ろして、青木は俊夫妻の写真を手渡した。
 薪はそれをぎゅっと胸に抱いて、子どものように素直な面持ちで、青木の大きな両手が桐のキャビネットを持ち上げるのを目で追いかける。

 それはちょうど8歳の自分が抱えていた骨壺と同じに見えた。
 中身がまさに骨壺と位牌だから。
 持てない重さじゃないけど決して軽くはない。
 あったはずの命と愛着がのしかかる重みだ。
 その重みを、あの大きな手は知っている。
 そして今あの手に委ねているのは、両親だけじゃなくあの日の自分も全部――
 
 事件について青木は公にされている側面しか知らない。
 つまり澤村さんの関与も知らない。
 言うつもりもなかったが、それでも大事なことは概ね嗅ぎ取られているようにも思えた。

 仏壇を閉ざしただけで開けたままにしていた仏間の襖を隙間無く閉ざしたのも、あの大きな手の仕業だろう。
 そしてその手はキャビネットと写真をベッドの脇に降ろすと、震える両肩を包むように支えてくれている。

「さあ、薪さん。今夜は俺たち家族とご両親で、ゆっくり休みましょうね」

 隣の子ども部屋を覗くと、希が組み立て途中のパーツと工具を広げた机に突っ伏して眠りこけていた。
 その様子を見て微笑むパパが、小さな体を抱っこしてベッドに移す。と、机の脇で丸まって眠っていたルカが起き上がって、襖を半開きにした隣室のベッドに腰掛けるママのところへ来て、鼻先で膝を突っついた。

「あ、夜の散歩……まだだったな」

「それは俺が行きますよ」

 ルカに続いて大型犬がもう一頭、薪の元へ来て跪く。
 
「雨が降ってるので……ルカと散歩して、ついでにシャワー浴びてきます」

 ルカの頭に置いた薪の手を、大きな手が包むように取った。

「あなたは先に寝ていてくださいね。そんなお可愛らしい顔で起きてたら……俺、絶対襲いますから」

 そう宣言して口づけて、勝手に照れて顔を逸らす。
 灯りを絞って部屋を出ていく青木の耳の赤みが目に焼き付いているせいで、薪の肌までジワジワと燃え移った熱で火照りだす。

 襖を隔てた隣室からは、希の寝息がきこえている。

 冷たく震えていた心は嘘みたいに落ち着いたのに、薪の眠れない原因は肌の疼きにすり替えられていた。

 青木が散歩とシャワーから戻った後のことを考えるだけで肌を蕩かしはじめる熱は、もうあの男にしか収められないのだ。
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