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176.高木盛之輔 (夢主・恵・時尾・盛之輔)
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武尊は待合室で薬を待っていた時尾にまた会釈をして、
「では時尾さん、私はこれで。どうかお体をお大事にしてください。」
と言って先に診療所を出ようとした。
武尊の頭の中はすでに会津に来たもう一つの目的、母成峠のことでいっぱいだった。
はたしてどうやったらそこに行けるのかと考えていた矢先、
「土岐さん、私を覚えてますか。」
と武尊の後ろから盛之輔が声をかけた。
名前を呼ばれて何の話だろうと武尊は振りかえった。
武尊に盛之輔の記憶はない。
ならば十六夜丸と関わり合いがあったのかと思い武尊は用心しながら盛之輔を見た。
振り返った武尊を見て盛之輔は話を続けた。
「十年前、母成峠で怪我をした私は苦しくて『楽にして下さい』と貴方にお願いした時、貴方はともう一人の男の人は骨折していた私の足の手当をして杖まで作って助けてくれたじゃないですか。」
そう言えばと武尊はあの日、母成峠で見た悲惨な死体の数々を思い出した。
そしてその中にわずかながら生存者がいて市彦と二人手当をしたことを思い出した。
それは間違いなく武尊の記憶だった。
その中で足を骨折していた中高生ぐらいの少年が確かにいた。
(十年・・十年経った今、あの少年は生きていた・・あの激戦を生きぬいてくれたんだ。)
過去において、たとえ十六夜丸の姿で多くの人を殺めたと知った今、武尊は一人でも人助けが出来たんだと胸が熱くなった。
そして嬉しくなって思わず、
「ああ・・あの時の・・・・・。」
と言ってしまって、ハッと口を押えた。
雑学余談:
タイトルの高木盛之輔(せいのすけ)につきましては次回高木家のことと一緒に少し紹介がてら書こうと思います。
そして時尾さんなのですが、史実によりますと、
1846年生まれ、明治11(1878)年では32歳。(生まれ月は考慮していません、単純引き算)
恵は1857年生まれ、明治11年では1878-1857=21のはずなのですがこちらは12月生まれとありますが、ネットの資料では初見22歳とあります。
あれ?(^_^;)
数字に弱い管理人ですのでここは素直に1857-1846=11
ということで時尾と恵の年齢差を出しました。
藤田夫婦のお子さんですが、史実によれば、
長男、勉が明治9年2月15日に誕生してますのでこの物語の時は数え年で3歳ですね。
そして次男、剛は明治12年10月4日生まれですので、夢主が時尾さんに言ったとおりその年の年末年始あたりで頑張って出来たお子さんではないかと思われます。
長編で時尾がおめでたという話にしようかと悩んだのですが2か月後には本当にご懐妊されてますので今回は長旅による体調不良ということにいたしました。
ちなみに最後にもう一人、三男の龍雄は明治19年7月1日に生まれています。
こんな所だけ史実を引っ張って来ています。
福島県は過去、震災の随分前に二度ほど訪れた事があります。
野口英世記念館には行けませんでしたが福島市内と時を別にしてさざえ堂に行った事があります。
その時の情景を思い出しつつ長編を書いていこうと思います。
今回出てきた渡部診療所の渡部という苗字は野口英世の手を手術した会津の医師で政治家の渡部鼎(かなえ)先生から苗字をお借りしました。
最後に、桐下駄なのですが会津桐は有名らしいです。
いつかまた会津を訪れる機会がありましたら名産の桐下駄と購入してみようかな、って思っています。
* * * * *
福島県のみならず他県も含めまして、一日も早い東日本大震災からの復興をお祈り申し上げます。
(新幹線を下りたホームに【うつくしまふくしま】とあったフレーズが忘れられません。)
2015.01.07
「では時尾さん、私はこれで。どうかお体をお大事にしてください。」
と言って先に診療所を出ようとした。
武尊の頭の中はすでに会津に来たもう一つの目的、母成峠のことでいっぱいだった。
はたしてどうやったらそこに行けるのかと考えていた矢先、
「土岐さん、私を覚えてますか。」
と武尊の後ろから盛之輔が声をかけた。
名前を呼ばれて何の話だろうと武尊は振りかえった。
武尊に盛之輔の記憶はない。
ならば十六夜丸と関わり合いがあったのかと思い武尊は用心しながら盛之輔を見た。
振り返った武尊を見て盛之輔は話を続けた。
「十年前、母成峠で怪我をした私は苦しくて『楽にして下さい』と貴方にお願いした時、貴方はともう一人の男の人は骨折していた私の足の手当をして杖まで作って助けてくれたじゃないですか。」
そう言えばと武尊はあの日、母成峠で見た悲惨な死体の数々を思い出した。
そしてその中にわずかながら生存者がいて市彦と二人手当をしたことを思い出した。
それは間違いなく武尊の記憶だった。
その中で足を骨折していた中高生ぐらいの少年が確かにいた。
(十年・・十年経った今、あの少年は生きていた・・あの激戦を生きぬいてくれたんだ。)
過去において、たとえ十六夜丸の姿で多くの人を殺めたと知った今、武尊は一人でも人助けが出来たんだと胸が熱くなった。
そして嬉しくなって思わず、
「ああ・・あの時の・・・・・。」
と言ってしまって、ハッと口を押えた。
雑学余談:
タイトルの高木盛之輔(せいのすけ)につきましては次回高木家のことと一緒に少し紹介がてら書こうと思います。
そして時尾さんなのですが、史実によりますと、
1846年生まれ、明治11(1878)年では32歳。(生まれ月は考慮していません、単純引き算)
恵は1857年生まれ、明治11年では1878-1857=21のはずなのですがこちらは12月生まれとありますが、ネットの資料では初見22歳とあります。
あれ?(^_^;)
数字に弱い管理人ですのでここは素直に1857-1846=11
ということで時尾と恵の年齢差を出しました。
藤田夫婦のお子さんですが、史実によれば、
長男、勉が明治9年2月15日に誕生してますのでこの物語の時は数え年で3歳ですね。
そして次男、剛は明治12年10月4日生まれですので、夢主が時尾さんに言ったとおりその年の年末年始あたりで頑張って出来たお子さんではないかと思われます。
長編で時尾がおめでたという話にしようかと悩んだのですが2か月後には本当にご懐妊されてますので今回は長旅による体調不良ということにいたしました。
ちなみに最後にもう一人、三男の龍雄は明治19年7月1日に生まれています。
こんな所だけ史実を引っ張って来ています。
福島県は過去、震災の随分前に二度ほど訪れた事があります。
野口英世記念館には行けませんでしたが福島市内と時を別にしてさざえ堂に行った事があります。
その時の情景を思い出しつつ長編を書いていこうと思います。
今回出てきた渡部診療所の渡部という苗字は野口英世の手を手術した会津の医師で政治家の渡部鼎(かなえ)先生から苗字をお借りしました。
最後に、桐下駄なのですが会津桐は有名らしいです。
いつかまた会津を訪れる機会がありましたら名産の桐下駄と購入してみようかな、って思っています。
* * * * *
福島県のみならず他県も含めまして、一日も早い東日本大震災からの復興をお祈り申し上げます。
(新幹線を下りたホームに【うつくしまふくしま】とあったフレーズが忘れられません。)
2015.01.07