藤の葉
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
たおやかで、かしこくて、そのくせ誰よりも内にあるものは激しくて。
彼女はいつも透き通った藤色を纏っていた。
気づけば時計の針はもうてっぺんを少し過ぎていて、映画を観ながらも、少しずつまぶたの重さが増していく。
数度首をがくんと揺らしてはハッと起きるのを繰り返したあと、あきらめて今日はもう寝ようと決めた。
彼女が貸してくれる映画はいつもすこし難しくて、そしてすこし悲しい。
映画は現実を忘れさせてくれるから好き、と彼女は言うけれど、映画に出てくるヒロインたちは、性格も容姿もバラバラなのに、なぜだかみんなどこか彼女と似ているように見えた。
ベッドに潜り込んで、目を閉じる間際、視界の端でスマホが光るのが見えてもう一度目をこじ開ける。
通知に表示された名前に一気に眠気が吹き飛んだ。
〈聡、起きてる?〉
一言だけ送られてきたメッセージになぜか胸がざわついた。
気になって電話をかけると、2コール目の途中で彼女の声が聞こえた。
「電話、いきなりだったからびっくりしたよ」
ふふ、と小さく笑う彼女の声を聞き、やっぱり、と確信する。
『なにがあったの?』
「…なにが…って……」
『なにかあったでしょ? わかるよ』
「…………」
沈黙した彼女の後ろから「いらっしゃいませー」と遠い声が聞こえた。
『今どこ?』
「…………駅前のファミレス」
『行く』
急いで着替え、財布とスマホだけ持って家を飛び出す。
走れ、走れ、走れ。
無我夢中で足を動かす。
静まった夜中の闇が、通ったところから波紋状に揺れていく。
今、僕の足は、君だけのためにあればよかった。
息を切らしながら扉を開けると、奥の席に1人座っている彼女と目が合った。
彼女の正面に座り、ドリンクバーを注文して店員さんが去ると、しばらく沈黙が流れた。
勢いで来たはいいけど、どうしよう。
こういうとき場を和ませることができるような気の利いた言葉を、残念ながら僕は持ち合わせていなかった。
そっと目をあげて彼女を盗み見る。
長い黒髪がとても綺麗で、こういうのは “つややか” 、っていうんだろうか。
CMで見るようなキラキラさらさらしたCGみたいな髪よりも、彼女の髪の方がずっと綺麗だなと思った。
また、グラスに視線を戻す。
ぼたっ、と音がして、顔を上げると、彼女の長い睫毛が濡れていた。
え、と動揺してる間にも、次々と涙が睫毛の間をうめ、重さに耐えきれなくなった雫が下に落ちていく。
「あれ、なんでだろ」
流れる涙に、彼女自身も驚いているみたいだった。
彼女の泣き顔を見るのは初めてだった。
慌ててハンカチを探したけど、急いで家を出てきたから持っていなくて、どうしようと焦っていたら、彼女が泣きながらプッと吹き出し、
「大丈夫だから」
と言って、テーブルに置かれているナプキンで涙を拭った。
「ついに、遭遇しちゃった。浮気現場」
へへ、と彼女は自嘲気味に笑った。
「家に早く帰ったら、知らない靴が並んでて、寝室の中からあの人と女の子の声が聞こえてきて、そっと家から出てくるしかなかった」
前々から浮気癖のある彼氏の話は彼女から聞いていた。
強がって、なんてことないように笑うけど、そのたび彼女が深く傷ついていることも、知っていた。
────ほんと、バカだよね。
彼女のつぶやきは、自分自身に向けられていた。
こちらをちらりと見て薄く笑う。
「なんであんな男と付き合ってるのって、別れればいいのにって、そう思ってるでしょ」
じゃあ、別れなよって言ったら別れてくれるの。
喉元まで出かかった言葉を押し込む。
『ううん、思ってないよ。いつも言ってるじゃん。〇〇がどれだけ彼氏さんのこと好きか知ってるし、簡単に割り切れることじゃないって思うから』
僕の仕事は、彼女のほしい言葉を差し出すこと。
嘘と嫉妬にまみれたこのセリフを、やさしさと無邪気さであふれたものに聞こえるよう話すのもうまくなった。
ほんとうは、そんな男とはとっとと別れて、もっと彼女を大事にしてくれる男と付き合った方が絶対に幸せになれるだろう。
綺麗で聡明な彼女は、男女問わず人気があるから、きっと立候補者は何人もいる。
だけど、彼女はハッピーエンドを選ばない。
それでも好き、と言い続けながら、かたくなに、その穴の中に深く潜って出てこないのは、執着なのか意地なのか。
でも、だからこそ、僕はこうしていられる。
彼女にとって、僕は必要な存在でいられる。
彼女がその深いところから助けを求めるのは、決まって僕だから。
ボロボロになって、悲鳴をあげて。
今、僕の前で君が涙を流してくれてることが、僕はどうしようもなく嬉しい。
もっと甘えて。もっと頼って。
そして、僕なしでは生きていけないようになって。
『いつだって、呼んでよ。飛んでくから』
これが今の僕の精一杯の告白。
最初で最後の、奇跡みたいな恋を、僕は僕のやり方で、ハッピーエンドに導いてみせるから。
彼女は、流れ続ける涙を拭くことを諦めたようで、ナプキンを手放した。
彼女の纏う藤色は、その涙で、すこしだけ深みを増したように見えた。
1/1ページ