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秘めごと




「佐藤くんの彼女って、どんな人?」


一通り今日の分のデータを打ち込み終えると、研究室の外はもう街灯が灯り始めていた。久しぶりの飲み会だ〜!、と浮き足立ちながら出ていった他のゼミ生たちは、きっともう店に着いている頃だろう。


欠席2名。うち1人に計上されているわたしは、表向きは金欠を理由にしたが、なんとなく今日は飲み会でワイワイ騒ぐよりも家で溜め込んだ録画を見たい気分だったから、というのが本当のところだ。


そして、“このあと予定があるから”という理由で欠席したもう1人は、開いたパソコンの向こう側で帰り支度をする手を止め、大きな目をふたつ、じっとこちらに向けた。


「いや、ごめん、ただの興味。嫌だったら全然話さなくていいんだけど」


不快にさせたと思いあわてて言葉を重ねると、ふっ、とその頬が軽く上がる。


『べつに嫌とかじゃないけど、なんか意外だなと思った』

「意外?」

『うん、あんまり興味なさそうに見えたから。他人のこと』

「わたしが?」

『そう』


少しムッとするも、“他人に興味がなさそう”という分析は否定しきれないので黙る。


案外、この人はこんな綺麗な顔をしてあけすけな物言いをするらしい。


院に行くことがほぼ前提にあるうちの学部で、大学4年に研究室に入り約9ヶ月。さすがに同じ研究室ということで数度言葉は交わしたことがあるものの、ここまでちゃんと会話をしたのは初めてかもしれない。いくら同期と言っても、あの有名な“佐藤くん”だ。なんとなく距離を感じていたし、その距離を詰めたいと思ったこともなかった。


目の前で脱がれた白衣が、壁打ちにされたフックにかけられる。ダッフルコートを手に取りながら、やけに整った顔が振り向く。


“勝利くんの目って、なんだかキラキラして黒曜石みたい”


廊下で彼とすれ違うたびに、みぃちゃんはそう言うけれど、いざちゃんと見てみると、宝石なんかよりもっと生気があるような、もっと濃縮された火球のような目な気がする。


“ねぇ、勝利くんって本当に彼女いるのかなぁ…?”


対してみぃちゃんは、マルチーズみたいな水分量の多いきゅるきゅるした目。この世の全ての人は自分に対して優しくあると無垢に信じている目。すがるように上目遣いでこちらをみるその目に捉えられてしまったのだから、しかたがないのだ。


「だって、わたしの周りでは都市伝説みたいになってるからさぁ、佐藤くんの彼女の話」


なんとなくの疾しさをごまかすために、強めにプログラム終了ボタンを押し、パソコンを閉じる。向いてないんだよなぁ、こういう相手の事情を探ったりするの。


「彼女はいるらしい、だけど誰も詳細を知らないから、佐藤くんが告白を断る口実のために嘘をついてるんじゃないか、とか、実は悲しい別れ方をしてそれを受け入れられていないんじゃないか、とか」


そこまで言ってから、しまった、焦りでいらないことまで口走った、と後悔した。暇を持て余した大学生たちの“佐藤勝利考察”を、みぃちゃんはやっぱりいつもきゅるきゅるとした瞳で聞いていたな、とふと思い出したら、それをそのまま口に出してしまった。


ごめん、と慌てて謝るも、謝罪に対する返答は特になく、ただクククッと喉を鳴らして笑われて、暗にさっきの考察は不正解と一蹴される。


『ふーん。あとは? どんな想像してたの?』


やめてほしい、改めて目の前になんか座らないでほしい。


ミーハーな人間に見られている気がして恥ずかしさが募る。こんな下世話で失礼な話に「想像」という言葉を使うあたり、オブラートに包んでくれているのか皮肉られているのか。


面白そうに片方の口の端を上げているけれど、そんな表情をしていてもどうにもこの人には言いようのない正しさの気質があって、まるで尋問されている気持ちになってしまう。


あの友人たちとの会話、みぃちゃんのきゅるきゅる顔、なんの根拠もない無責任な会話のラリー、わたしはなんて言ったっけ。……そうだ。


「勝手な想像だけど…。もし本当に彼女がいるなら、その子はなんとなく黒髪で、白い肌で目がぱっちり大きくて、人の話とか一歩下がって聞いてるような、おとなしそうな子かなって。周りが思わず手を差し伸べたくなるような、そんな子…かな、わかんないけど」


もう目も上げられず、視線は年季の入った研究室の机の上をうろうろとさまよう。いっそ“キモい”とひとことで断罪してほしかった。こんなことになるなら怠惰を発揮せずに大学生らしく飲み会に参加すればよかった。


心中ぶつぶつと後悔を唱えていると、ひらり、と視界の隅で白いものが揺れる。長いチェックのマフラー。おそるおそる上へと辿ると、くすくすと笑う顔があった。


『昔っからねー、なんかそんなイメージ持たれがちなんだよね、オレ。なんでだろ』


いやでも、あの人の前はたしかにそんな感じの人ばっかだったのかな?


思い返すようにくるっと斜め上に目線を上げて首を傾げた後、ダッフルコートのポケットに手を突っ込む。


取り出したスマホを操作しながら、長いまつ毛が瞬いてちらりと持ち上がる。


『今言ったことのだいたい反対が、オレの彼女』


いたずらっぽく笑う口元からは、どうやら“キモい”の“キ”の字すら出てくる気配はなく、むしろなぜだか鼻歌でも歌い出しそうなくらい楽しそうだ。


「…反対って?」


流れが見えないまま尋ねてみる。


『目が大きくて肌が白いのはそうだけど、あの人は間違ってもおとなしくはないし、人の話を聞くより自分の話をしたいタイプだし。周りが手を差し出そうものなら、プライドに傷がついて、たぶんその手を振り払うだろうな』


それがうちの彼女です、と笑いながらもどこか誇らしげに言い、写真見る?とスマホを差し出される。


画面には、明るい茶髪をひとまとめにした美人がキッチンに立ってエプロンを結んでいる写真が写されていた。


『このあと、この人ビーフシチューを作ろうとして大失敗するんだけど』


スライドされる写真はどれも、きっと佐藤くんが彼女をこっそり撮ったものなのだろう。写真が進むにつれてキッチンに向かう彼女の眉根が険しいものになっていく。


『もう最近はオレの方が料理うまいからって丸投げなんだけどね。高校のバレンタインの時も背伸びして頑張って作ったマカロン、結局崩しちゃっててさ』


たしかに、なんとなく想像していた佐藤くんの彼女像とはまるっきり違っていた。清楚というよりも溌剌として、強気そうな大きなつり目が印象的だ。どちらかというと派手な顔立ちで、ネイルもメイクもばっちりと施されている。


たしかに違っていた。けど、これはなあ。


楽しげに写真をスライドし続けながら喋る顔をこっそり見やる。上がりっぱなしの口角に、細められた目の中でぱちぱちと火球が爆ぜる。


こんなに全然違っちゃったら、ね。


脳裏に浮かぶきゅるきゅるとした瞳は、その水分量を増していく。でもみぃちゃん、これはきっとどうやっても無理だよ。たとえみぃちゃんがおとなしい黒髪清楚美人じゃなくて、たとえばこの彼女みたいな見た目だったとしても、これは無理。取っ掛かりすらないんだもの。


『あんまり周りに話さないのは、単純に違う大学だからっていうのもあるけど、この人が今モデル活動もしてるから。別に秘密にしてるわけじゃないけど、言っても面倒ごとが多くなっちゃいそうだし』

「…でも、ほんとはちょっと自慢したいんでしょ。モデルとか抜きで、彼女のこと」


だって写真にそう書いてある。画角も距離感も温度感も全部。


『……まあ、ね』


さっきまでの饒舌さがすっかり消えた、小さな声。


意図せず一矢報えたか。美男の赤面は少し見てみたい。


悪戯心と共にちょっと期待して目の前の顔をちらりと盗み見すると、彼はうずまったマフラーの中で、愛おしさを滲ませた柔らかな微笑みを小さく浮かべていた。


なんだか見てはいけないものを見てしまった。これは、他人のわたしが見ていいものではなかった。


固まってしまった体を無理やり動かして、「可愛い彼女だね」となんとか絞り出すと『でしょ?』と嬉しそうな声が返ってきた。


他人のむき出しの愛情に意図せず触れてしまった衝撃に、チカチカとわたしの目の裏にも火球が飛ぶ。何度も瞬きをしながら、こっそりと今の光景を心の中にしまい込む。


『あ、もう行かなきゃ』


腕時計を見たあと、白いマフラーをぎゅうと巻き直す。じゃあまた来週、と出ていく背中を「ねえ」と引き止めた。最後にどうしてもひとつ、聞きたいことがあった。


「なんで彼女さんのこと、わたしに話してくれたの?」


グレーのダッフルコートがくるりと振り向く。


だって、と長めの前髪から目が覗く。


『似たもの同士だなって思ってたから』

「似たもの同士?」

『君もオレも、ひとりの人にしか興味がないから』

「え?」

『いつも一緒にいる、あの黒髪の子。きゅるっとした目の。そうでしょ?』


問いを投げかけたまま、返答を待たずにグレーのコートは出ていった。その左手には、デパートの紙袋が握られていて、中からはラッピングされた黄色い袋が見え隠れしていた。




暖房の音が止まった研究室は、しんと静まる。






きゅるきゅるとした水分量の多い瞳。


増す水かさの中に影が揺れて、下まつ毛に乗ったひと雫。


そうだよ、と頷いたらそれは落ちてしまう。


ねえ、みぃちゃん。


その瞳に、捉えられて、囚われて。




まだ、落ちない。



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