③
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指折り数えてようやく迎えた週末は晴天だった。
『おまたせ。どうぞ乗って?』
「お邪魔、します………」
待ち合わせに指定した駅へ迎えに来てくれた先生は、車の窓からひょいと顔を出した。
そろりとぎこちなく助手席に乗り込んだわたしを、先生はきょとんとした目で見つめる。
『なんでそんなギクシャクしてるの?』
「だ、だってそりゃ緊張してますから…」
身内以外の車に乗るのは初めてだ。
クッションとかボックスティッシュとか、そういう無駄なものが一切置かれていないシンプルな車内は、足の踏み場がないくらい物に溢れている司書室とは大違い。
それでも、黒で統一されたシートも香水の甘い匂いも、ここが「先生の空間」だということを納得させる。
それに、先生自身の雰囲気もいつもと違う。
てっきり私服も、学校で着ているような襟のついたシャツを想像していたのに、今日の先生は、TシャツにMA-1を羽織って、細身のスキニーを履いたラフな格好。そのうえ、学校でいつもかけている眼鏡ではなく、コンタクト。
それはなんていうか、“先生” というよりもずっと、“男の人”、みたいで。
そんなわたしのもじもじとした態度を見て、先生はますます不思議そうに目を丸くする。
『えっ〇〇も緊張とかするの?』
「なっ…、わたしのことなんだと思ってるんですか!いくらわたしが感情に乏しいからって…!」
『いや、そうじゃなくてさ。だってずーっとオレにためらいなく好きって言ってくるし、デートだってグイグイせがんでくるから、こういうので今さら緊張するんだって意外で』
びっくりした、と素で驚かれるものだから、ますます恥ずかしさが募って、被ってきたキャップをより深く被り直す。
そりゃ普段は緊張とかしないけど、先生は別枠だ。
ただでさえ先生と校外で2人きりは緊張するのに。
休日の先生はオフモードに入っているのか、いつもより口調もくだけて、なんだか学校にいる時よりも近い距離に感じてしまうから、胸の中は跳ねっぱなしで。
だけど先生はそんなわたしを見て、なぜかご機嫌になって、運転しながら鼻歌まで歌い出す。
「…先生なんか嬉しそう」
『ふふ、そりゃあね。しおらしい君は新鮮だから』
「……そうですか」
ふてくされて窓の外を向く。
わたしの人生にこんな想定外を作ったのは紛れもなく先生なのに、他人事みたいに楽しそうに。
キャップの影からそっと覗いた先生は、流れ始めたアップテンポなメロディを口ずさみながら前を向いていて。
小さくため息をつく。
やだなぁ。
もうこれ以上ない、って毎日思うのに。
いとも簡単に、次の日には好きが更新されちゃうんだから。
……ほんとに、やだなぁ。
1時間車を走らせて、着いた先は郊外にある自然公園だった。
この公園は花畑が人気らしい。足を踏み入れると、辺り一面、色とりどりの花々が咲き誇っていた。
「こんなに広い花畑、初めて来ました。コキアにコスモスにケイトウ…あ、バラ園もあるんですね」
周りを見渡すわたしに、横を歩く先生は驚いたようにこちらを見る。
『花、ずいぶん詳しいんだね。単純にオレの好みでここ連れてきちゃったけど』
「小さいときから、絵本よりも図鑑を見てる方が好きだったんです。物語はあんまり登場人物の気持ちとかわからなかったから、それよりも知識を得られる図鑑が心地よくて」
『ふーん、〇〇らしいね。…あ、じゃあこれは?』
「ああ、その花は…」
しゃがみこんでそっと手を添えられた小さな白い花。
顔を寄せて先生は、すん、とその匂いをかぐ。
真っ白な花びらは、先生の手の中でふわりと揺れて。
『この花の名前は?』
「………え、…あ、なんだっけ…」
ヘラヘラ笑いながら「忘れちゃいましたぁ」と首を傾げると、『ちょ、今の知ってる流れだったじゃん』と先生も笑いながら立ち上がり、また歩き始める。
『君みたいって思った』
「へ?」
『あの花。小ぶりで可愛らしいけど、なんか凛としてて』
思わず黙り込んだわたしを不思議に思ったのか、先生は首を傾げて『どうした?』と見下ろす。
こうやって唐突に、まるで、トンと背中を押すように。
「…先生」
『ん、なに?』
「…なんでもないです」
ぎゅうっと音を立てる心臓はこんなにうるさいのに、『ほら行くよ』とこちらを振り向く先生には聞こえないらしい。
“可愛らしいけど、凛としてて”
せわしない胸を落ち着かせるように、服の袖をぎゅうぎゅう伸ばす。
先生の前では本当のことしか言わないって決めていたのに、“忘れた”って、初めて嘘をついてしまった。
さっき言わなかった名前を、こっそり唱える。
スイートアリッサム。
先生がわたしにくれた花の名前。
……わたしが先生に教えなかった、花の名前。
その日は、今までの人生で1番はしゃいだ日だったと思う。
先生と見た花たちは、今まで見たどんな花より美しかった。
先生とサービスエリアで買ったお弁当は、今まで食べたどんな高価な食べ物より美味しかった。
ハンドルを握る先生の隣で窓から見た夜の街並みは、記憶の中のどんな光景よりも、泣きそうになった。
残念ながら道路は混み合うこともなく順調に流れて、ちょっとくらい渋滞してくれてもよかったのに、なんて、これは欲張りすぎる願いだったみたいだ。
近くの駅までで良いです、とわたしは何度も言ったけれど、それ以上に先生が、夜道は危ないから、と言い張って、結局家の近くまで送ってくれた。
「ありがとうございました」
『いーえ、こちらこそ』
「すごく楽しかったです。今日一日ずっと夢みたいでした」
『ん』
目を細めながら小さく口の端を持ち上げた先生は、ポンとわたしの頭の上に手を置いた。
キャップ越しだけど、きっとわたしは目を瞑ってもそれが先生の手だと言い当てることができるだろう。
………やっぱり、好きだなあ。
「先生、わたしのわがまま聞いてくれて、本当にありがとうございました。いい思い出ができました」
頭の上でポンポンと心地よいテンポで刻まれていたリズムは、戸惑うようにその動きをゆっくりと止める。
「先生と一緒だから、こんな綺麗な思い出を作ることができました。これから一生、たぶん今日のこと何度も思い返すと思います」
『…〇〇?』
「先生、好きだよ。大好き」
わたしを見つめるふたつの瞳が揺れる。
対向車のライトが先生の顔を浮かび上がらせ、すぐに遠ざかり、その輪郭はまた夜ににじむ。
「…でも、先生はわたしのこと好きじゃなくていいの」
先生がいたから、見えなかったものが見えた。感じられなかったものを感じられた。
先生はわたしにたくさんのものをくれた。
だから、それだけでもう十分。
「先生、最後までありが、……っ!」
頭の上にあった手は、いつのまにか下ろされて。
ぴとりと唇に押し当てられた親指に、別れの挨拶を最後まで言うことは叶わなかった。
『…また似合わない色のリップつけてる』
親指は、リップを拭うように、唇をゆっくりとなぞる。
暗い車内で、あいまいな輪郭は、触れたところだけはっきりと形を持って。
『…今度は、一緒にリップを選びに行こうか』
思わず目を見開いたわたしに、先生はふっと口元を緩める。
『決めるのはオレ、なんでしょ?』
電灯と車のライトだけが差しこむ車内で、先生の表情はよく見えなかったけれど。
この前のわたしの言葉をなぞった台詞に、口を封じられたまま、わたしはただ、こくりと頷いた。