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窓の外は陽炎がゆらゆら立ちのぼって、クーラーの効いた教室で、紙をめくる音だけが響いて。
『なんでいつも作り笑いしてるの?』
夏休み前に突然決まった担任替えから、たった1ヶ月。
「担任」という言葉がまだ馴染みきらない若い教師との二者面談は、つつがなく終わると疑いもせず、まさか今まで誰も気づかなかったわたしの嘘を見抜かれるなんて、ほんの少しも思っていなかった。
あの夏の日。
わたしは初めて、こんなにも鮮やかな色が世界にあることを知った。
肌寒さを感じて、ゆっくりと目を開けて息を吸い込むと、埃っぽさが鼻をくすぐって、小さくくしゃみが出た。
司書室で先生が部活動から帰ってくるのを待っていたら、知らないうちに寝てしまっていたみたいだった。
積まれた本の上にのせていた頭を起こす。
また、あの夢を見た。夢というより、記憶。
去年のあの日、先生からの問いに、わたしは泣きたいのか笑いたいのかわからないまま、「気づかれたの先生が初めて」と答えて、それから。
『まーた勝手に入ってる』
ドアが開いて、入り込む外の喧騒とともにため息の音が聞こえた。先生が後ろ手でパタンとドアを閉じれば、司書室は元の静寂を取り戻す。
「えへへ〜せんせーのこと待ってました♡」
『待ってました♡じゃないんだって。勝手に入っちゃダメって何度も言ってるでしょ』
「せんせー、いいかげんこの部屋整理したほうがいいと思いますよ?本とか崩れ落ちそうだし…あ、このデスクライトからぶら下げてるパンダのキーホルダーいいですね!」
『こーら、あからさまに話を逸らすのやめなさい』
ぶら下がったキーホルダーを指で弾いて聞こえないフリをすると、先生は諦めたようにまたため息をついて、『それ欲しいならあげるよ』と笑った。
「え、いいんですか?!」
『こないだ買ったお茶についてきたものなんかで良ければ』
「やったー!」
マスコットやキャラクターを一度も可愛いと思ったことはないけど、先生が持ってたものだと途端に愛おしくなる。デスクライトから外して、さっそくカバンにつけ、ふにふにとパンダの頬を撫でていると、不意に先生の香りが近づいた。
『……これ、どうした?』
伸ばされた指は、わたしの唇の端をそっと撫でる。
その傷は、一昨日、岸井さんに突き飛ばされたときにできたものだった。
彼女は、恐怖に満ちた目でわたしを見上げ、息も絶え絶えに「…ッバケモノ!」と叫んでわたしを突き飛ばし、自習室を走り去っていった。
あの放課後から、昨日も、今日も、岸井さんは学校を休んでいる。
「あーちょっと切っちゃっただけで、見た目ほど痛くないから大丈夫ですよぅ」
あまりにも心配そうな顔をするから、安心させたくて笑ってみせると、先生はじっと見透かすようにわたしの目を見つめる。その目が、は、と思い当たったように大きく開かれた。
『………岸井と何かあった?』
真っ直ぐにわたしを射抜く目には、不純物なんてひとつもない。
……やっぱり先生には気づかれてしまうね。
それはあの夏からずっと。
「へへ、ほんと先生ってすごいね!わたしのこと全部わかっちゃうんだもん。だから先生のこと大好き」
『…っ、〇〇、』
「別に、ちょっと先生によくなーいことをしようとしてたので注意しただけですよぉ〜〜。前みたいに、安易にネットに流出させたりしてないから安心してください。もぉ怒られたくないし」
『じゃなくて、〇〇、』
「あ!嘘はついてないですよ!わたし先生には嘘つかないって決めてるんで、今のところ岸井さんには本当に何もしてな」
『そうじゃなくて!』
先生はわたしの腕を掴んで、言葉を遮った。
『違うよ、君のことだよ、〇〇』
いつも穏やかな弧を描いている眉根は険しく顰められ、眼鏡の奥で、2つの瞳は、まるで痛むようにこちらを見つめる。
『前から何度も言ってるけど、こういうのは、もうやめなさい』
それはいつもの授業では聞かない、硬くて強張った声だった。
『この学校に通う子たちの家は、普通とは違うんだ。いろんなところに繋がりを持っていて、そのなかには危ない人たちだっている。下手に目をつけられると、君の身に危険が及ぶことだって十分ありうるんだ』
先生は、掴んでいた腕をそっと離して、もう一度わたしの口元をそっと撫で、『……厳しいことを言うようだけど』と静かにその手を下ろす。
『僕のためを思ってしてくれるのなら、こんなの僕は頼んでない』
「うん、頼まれてないし、先生のためじゃないよ」
間髪入れずに即答すると、先生は繋ごうとしていた言葉を見失ったように、こくりと息を飲みこんだ。
「これは、自分のためだよ」
わたしのからっぽの声は、このときだけは、なんだか少し芯を感じさせるように響いた気がした。
言うこと聞けない子でごめんね、先生。
去年のあの夏の日、「気づかれたの先生が初めて」と答えて、それから。
“普通の人が普通に感じることが、わたしにはわからないんです” とわたしが言ったら、先生は、
“…〈普通〉の人なんて誰もいないんだから、〇〇も〈普通〉なんじゃない?”
そう言って、ボールペンをくるりと回しながら笑ったんだ。
そんなの口先だけだ、って突っぱねることをしなかったのは、先生がそのあと本当に何も変わらなかったから。
わたしがこんなふうに無機質に話してる時も、教室でハイテンションを装ってる時も、先生の接し方は全然変わらなくて、変な人だ、と思うのと同時に、今まで経験したことのない感情が生まれていった。
先生が笑うと、わたしも嬉しくなった。
先生と話すと、胸がくすぐったく跳ね上がった。
灰色一色だった世界の中で、先生を通して見る景色は泣きたくなるくらい綺麗で、その幸福を絶対に絶対に手放したくないと強く思った。
だから、これは先生じゃなくて自分のためなの。
「先生、好きです。じゃあまた明日ね」
先生は、困ったような、悲しいような、……ううん、やっぱり痛そうな顔をしていた。
ごめんね、先生。
わたしはいつも自分が大切で、ごめんね。