①
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
放課後、もはや決まりきった儀式みたいに教員用玄関の下駄箱を覗くと革靴がなかったから、先生は外にいるみたいだった。
たぶん、弓道場に行ったんだろう。
弓道経験なんて全くないのに顧問に任命されてしまったものだから、春先の図書司書室は弓道に関する本であふれていた。
本当は先生が戻ってくるのを司書室で待ち伏せしたいところだけど、あいにく別の用事があるから今日は断念。
玄関を後にして、階段を昇り3階の自習室へ向かう。
放課後の校舎はもうすっかり閑散としていて、時折、外から部活に励む生徒たちの声が聞こえてくる。
自習室も、昼間はいろんな授業で使われて賑やかだけど、今はすっかり静かだ。
冷たい扉をあけると、窓から差し込む夕日の下に伸びた影が、教室の奥で跳ねるように振り向いた。
「……〇〇、さん…」
「やっほー岸井さん」
胸の前で小さく手を振ったけど、彼女は振り返してはくれず、綺麗な茶髪をわずかに揺らし、ただただ怪訝な顔でこちらを見つめる。
「?……ああ、わたしで合ってるよ、岸井さんの机にメモ入れたの」
彼女の目が大きく見開かれた。
“探し物を持ってる”
そう書いたメモを入れたのが、まさかわたしだとは思わなかったみたいだ。
「岸井さんが探してるのって、これだよね?」
カバンから青いノートを取り出す。
ペラペラめくると、少しひしゃげた大好きな形の文字が並んでいる。
先生のノートだ。
「岸井さんが今日の朝ここに置いてったこのノート、わたしがすぐに回収しちゃった」
「…っ、なんでそれを…中身は……っ…」
「ノートを置いていったことは否定しないんだね」
彼女は自分の失言を仕舞い込むように、慌てて口に手を当てた。
「こんなもの挟めたノートを人が集まる自習室に置いて、岸井さんどうするつもりだったの?」
ひらりとかざした何枚かの写真を、彼女は唇を噛んで目を背ける。
きっと彼女が撮ったんだろう。
その写真には、女子更衣室での生徒たちの着替えの様子が写っていた。
彼女は何度か何かを言いかけようと口を開いて、閉じてを繰り返して黙り込む。
「……………だって…っ…」
しばらくの沈黙の後、泣きそうな声が小さく漏れた。
だって、だって、と繰り返すその声は、重ねるごとに大きくなる。
「………“君は生徒で僕は教師だから”って言うんだもの…っ……」
彼女の茶髪は、震える言葉に合わせてゆらゆら揺れる。
綺麗にその髪を縁取っていた夕日は、もう沈みかかっていた。
「………じゃあ、先生じゃなくなっちゃえばいいんだって……バカな考えだってわかってたけど、それでも止められなかった………」
彼女の声に、嗚咽が混じる。
「……っ、だって、わたしにはもう先生しかいなかったの…………ずっと1人だった……親はわたしより仕事の方が大切で……っ……学校だって家の名前に擦り寄ってくる人間はいても、友だちはいない……っ…作り方も、知らないっ……」
ぽた、ぽた、と彼女の足元に雫が落ちていく。
次々とあふれる涙も言葉も、もう彼女自身、止められないみたいだった。
「会社の経営が悪化してっ……周りの人間はどんどん離れていった………手のひらを返したみたいにみんな……っ…優しかった婚約者すら……っみんな………変わらず接してくれた人は先生だけだったの……」
「……岸井さん」
「…っあなたにはわからない!!」
絞り出された声は薄暗い教室に響いた。
彼女は涙を溜めた目で、苦しそうに眉をきつく寄せる。
「毎日友だちに囲まれて…っ…楽しそうに笑って………勉強だって運動だってできて、そのうえ先生まで……! あんなふうに先生に軽々しく告白できるあなたには、全部持ってるあなたには絶対にわからない!!」
はぁはぁ、と彼女の荒い息遣いだけが響く。
彼女の長い茶髪も、綺麗に施された化粧も、乱れていた。
彼女の声が耳の中にこびりつく。
あなたには、わからない。
「…わからなくて、ごめんね」
ぽつんとこぼれたわたしの声は、無機質に教室に落ちた。
肩にかけたカバンからファイルを取り出して、その中から何枚かの写真を抜き取る。
「これ」
彼女に近寄って、写真を渡す。
俯いていた彼女は、ゆっくりと顔を上げ、そして凍りついた。
「………っ…」
「先生に2度と近づかないで。今度何かしたら、この写真の画像をネットに流します」
それは、彼女が裸でベッドで寝ている写真だった。
このまえクラブで近づいた男は、何度か会って気をもたせるような言葉を投げかけたら、簡単にペラペラと「婚約解消とかマジでラッキーだったわ」と軽薄な笑みを浮かべて話し始め、画像を見せてくれた。
目の前の彼女は、その場にへたりと崩れ落ちる。
彼女のしようとしてることには、だいぶ前から気づいていた。
本当は画像を手に入れた時点で、このままSNSに投稿してしまおうかと思ったけれど、先生の顔が浮かんでやめた。
優しすぎる先生は、きっと責任を感じてしまうから。
それに以前、校内のいじめの様子を撮ってアップしようとしたとき、先生にひどく怒られたし。
床に膝をついた彼女の息は、ひゅっひゅ、と音を立て始める。どうやら過呼吸になっているみたいだ。
「……たぶん、本当は同情するところなんだよね。きっと普通の人はあなたの境遇を聞いたら、哀れんで、かわいそうだと思うはず」
さっきの彼女の言葉が頭の中で繰り返される。
あなたには、わからない。
「……ごめんね、本当にわからないの。人が喜ぶのも、悲しむのも、笑うのも、泣くのも、全部わたしにはわからないの」
人はどうしてあんなに色鮮やかで軽やかな声を出せるんだろう。
わたしは、うつろな声がバレないように、精一杯強弱をつけて、抑揚をつけて、やっとのことで「普通」の声を装えるのに。
わたしを見上げる瞳には、怯えが浮かんでいる。
その怯えの色さえ、わたしにはうらやましくて笑ってしまった。
ほら、やっぱりわたしのスイッチはブッ壊れてる。
わたしの住む世界は、ぜんぶぜんぶ空っぽで灰色で無機質だ。
………ただひとつ、先生といるとき以外は。
数時間前の先生の声を思い出す。
優しくてあったかくて、少し高く響くあの声は、唯一わたしの心を揺さぶる音。
“恥の多い生涯を送ってきました”
“自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです”
暗唱できるくらい何度も読み返した。
あの本に出会った日、物心ついてから人生で初めて自然と涙が出たんだ。
───ああ、これはわたしだ、って。