最終話〈後編〉
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君は、僕のひかり。
……ごめんね。
一生に一度の恋だ。
まだ20年弱しか生きていないのに、“一生” なんて大層にも程がある名詞かもしれないけど、あのときのオレは、これがそうなのだと確信に近い直感を持った。
痺れた指先が、とろけたように脳裏を侵食する赤が、それを証明していた。
大学2年の秋、“会ってみるだけでいいから” と、半ば強引に両親に押し切られ、しぶしぶ向かった麻布のイタリアン。そこで、ニナと出会った。
両親の知り合いの娘だというその人を洒落た店内で待つ間、22時までには帰れるだろうか、と提出期限のせまったレポートのことで頭の中はいっぱいだったはずなのに、「あなたが中島くん?」と聞こえた声の方を振り返った瞬間に、そんなのは全てどこかへ吹き飛んでしまった。
黒いショートカットに真っ赤な唇。
緩やかにつりあがった薄茶色の、吸い込まれそうな大きな瞳。
衝撃、なんて言葉じゃ軽すぎる。
突如、全く別の生き物になってしまった感覚。
数秒前までの自分がどういう人間だったか、もう思い出すことができなかった。
「中島くん、で合ってます?」
顔まわりで切りそろえられた黒髪が、色素の薄い瞳をより際立たせる。
不思議そうに丸くなったその瞳に、あわてて喉の動かし方を思い出して『あ、合ってます…』と掠れた声で答えたのが始まりだった。
どんな話をしたのか、そもそもまともに話ができていたのかも分からない。
ただ、ゆっくりとフォークを口に運ぶ彼女の姿はどんな名画よりも美しく、時折細められる目とふわりと持ち上がる口元はどんな女優よりも綺麗だと思ったことだけは、鮮明に覚えている。
『っ、また会える…?』
22時をとうに過ぎた帰り際、切迫感と祈りで震えた問いに、「…じゃあ、連絡先交換しなきゃね」と悪戯っぽく微笑まれたときは、天にも昇る心地がした。
その次のデートで、ふっくらと赤くにじむ唇に「ねえ、健人」と不意に名前を呼ばれたときは、まるで背徳的な幸福が耳を伝って脳を溶かしてしまうように思えた。
息ができなくなるほど緊張しながら告白したとき。
甘やかな赤い唇にキスをしたとき。
初めて身体を重ねたとき。
恋とはこんなにも艶やかで切実で甘美なものなのかと、それなら今までしてきたものは単なる恋愛の真似事に過ぎなかったものなのだと、彼女と過ごして、初めて知った。
女神。聖女。オレの感覚全てを司るひと。
オレにとって彼女は、どこまでも美しく神聖な存在だった。
だから、付き合い始めて数ヶ月経った頃から、彼女の首元から会うたび違う男物の香水の匂いがするようになっても、彼女が知らない男とホテルから出てくるのを目撃しても、………彼女のマンションを訪れたとき、奥の部屋から嬌声が漏れ聞こえてきても、咎めることはしなかった。
傷つかなかったと言えば嘘になるけど、それでも、彼女の神聖さが損なわれることは全くなかったから。
愛と性欲は別物と言うし、恋愛の形は人それぞれ。それを彼女が望むなら、それで彼女の隣に居続けられるならいいと、見ないふりを続けた。
だけど、そんな彼女との日々は、ある時パチンと破裂した。
『ど……したの…その顔………』
「ああ、これ。ママにぶたれちゃった」
昼時のカフェで絶句するオレに、彼女は自嘲的に頬を持ち上げようとして、途中で痛そうに眉をひそめた。
いつも真っ白でなめらかなニナの頰は、右側が赤く腫れ上がっていた。
『ぶたれたって、どうして……』
「撮られたの、写真」
ニナは黒いブランドバッグからクリアファイルを取り出し、その中に挟まれていた一枚の紙をテーブルの上に置いた。
真っ先に目に入ったのは、[月9出演若手俳優の奔放すぎる夜の営み!]と大きく書かれた下世話な見出し。そして、男とニナが、ラブホテルから出てくる写真。
[赤坂の高級ラブホテルから出てくる2人。マスクをしキャップを目深に被っているのは、人気上昇中の若手俳優、××だ───]
[お相手は雑誌などで活躍中のモデル・藤野ニナ(21)]
[××と言えば、つい先日も、共演経験のある--とのお忍びデートが報じられたばかりであるが───]
[一方、関係者によると、相手の藤野にも、一般人の交際相手がおり───]
文字列は追っても追っても、なかなか頭の中に入ってこなくて、ニナがその紙をファイルにしまうまで十分に時間はあったはずなのに、結局読み切ることはできなかった。
『こ、れ………』
「記事は出ないよ。うちの親が握りつぶしたから」
ニナは片耳に髪をかけながら、小さくため息をついた。
「でも、ものすごい勢いで怒ってた。藤野家の恥だ、お前のせいで破談だ、あちらの家に顔向けできないって」
『そ、んな……』
「明日、両親と一緒におじさまとおばさまに謝りに行ってくる。たぶん、それが健人と会う最後になるのかな」
『っ!まって、最後って……そんなの、それでもっ、』
それでも、オレがニナを好きなのは変わらないのに。
続けようとした言葉は、彼女の呟きに遮られた。
「やっぱり、怒らないんだ」
『……え?』
「いろんな男と寝てみせても、結局、一度も怒らなかった。……健人は優しいもんね」
ゆっくりと彼女は微笑んで。
────だから、寂しい。
落とされた声は、カフェの喧騒にすぐ飲まれて消えた。
続けるはずだった言葉は、彼女の呟きに取り上げられてしまって、代わりの言葉を探そうとしても見つからない。
こちらを向いていた大きな瞳は、どこか諦めたようにそっと伏せられた。
「ねえ、健人」
赤い唇がゆっくりと動く。
窓から差し込む光が雲に隠れて、その赤は影を落とす。
「健人がわたしを許すたび、わたしの心は死んでいったよ」
そのとき初めて、彼女が女神でも聖女でもなく、同い年の1人の女の子だということに気づいた。
実家から縁を切られて4年、オレは私立高校で現代文教師をしていた。
親たちの前でオレが放った言葉を、ニナは「健人がわたしに男をあてがっただなんて、どうしてあんな嘘…!」と言ったけれど、別に嘘をついたつもりはなかった。
彼女にああいうことをさせてしまったのはオレだから。
彼女の叫びを無視し続けたのはオレだから。
彼女の心を殺したのは、オレだから。
通勤で毎日使う車のダッシュボードには、彼女の雑誌やパンプレットを置いて、見返すたびに、心の中で自分の罪を思い出し続けた。
ずっと勉強を続けていた化粧品に関わる仕事はできなくなったけど、案外、教師という仕事も悪くなかった。
高校生たちは傷つきやすく繊細で、だけどそのぶん、少しの間で見違えるほど成長する。
その過程に携われるのは楽しかったし、やりがいもあった。……ただ、所詮自分は人に傷を負わせた人間で、だから近づきすぎないように、慎重に生徒たちと一線を引いていたけれど。
そんななか、担任となったクラスで1人の生徒が妙に気になった。
特待生で、成績優秀だと職員室でも話題になっていた女子生徒。
教室での彼女は、無理してはしゃいでいる、というか、あからさまに猫をかぶっているのに、誰もそれを指摘するどころか、気づいてさえいないのが不思議だった。
生徒たちにさりげなく聞いたり、職員室で他の先生に尋ねてみたりしたけど、返ってくるのは決まって “文武両道で優秀だけど、少し天然なところがある明るいムードメーカー” という答え。
だから、本人に聞いてみた。
『なんでいつも作り笑いしてるの?』
夏休み中の二者面談。
模試の結果や前担任からの申し送り事項の書かれた資料に目を落としながら聞いた問いに、これまでハキハキとした口調で答えていた〇〇の声が消えた。
しまった、やっぱり踏みこみすぎただろうか。
心の中で自分に小さく舌打ちをして、質問を取り消そうと上げた目線の先で見えてしまったのは、────普段とは全く違う、すべてが抜け落ちた能面みたいな彼女の顔。
だけど、次の瞬間。
「気づかれたの先生が初めて」
彼女は、花開くような柔らかな笑みをふわりと顔いっぱいに広げていた。
さっきの無表情は見間違いだったのかと思うほど。
それ以来なぜかオレのことを好きだと言い始めた〇〇と接するうち、だけどあれは見間違いなんかじゃなく、彼女の素なのだと知っていった。
そして、関われば関わるほど、正直やっかいな子に懐かれてしまったと後悔した。
彼女は、オレがどれほど言っても、危険なことを躊躇なくやってしまうし、自分の身を顧みようともしない。
その行動は危うくて見ていられないし、オレが “ここまで” と引いた線の内側に彼女は入り込んでくる。
こちらの制止を聞くことなしに、いつも線の内側で自由奔放に振る舞うし、それなのに、不意に見せるあの抜け落ちた顔、………それが時折ニナに重なる、なんて。
やめてくれ。もう嫌なんだ。間違えさせないでくれ。
だから、一度は突き放そうとして、だけど。
蛍光灯の下で、ぐちゃぐちゃに乱れたワイシャツが脱げ落ち、白い太ももがむき出しになった〇〇を無我夢中で抱きしめたとき、どれだけ力を強めても震えが止まらなかった。
怖かった。
腕の中の〇〇は、ボタンは千切れて、頬には赤い手形の跡が残っているのに、「大丈夫だよ」って全然大丈夫じゃないまま、オレの背中をさすろうとする。
“普通の人が普通に感じることがわからない” と、自らの痛みに気づけないこの子の腕がどんなに細くて危ういか知っていたのに、それをオレは手放そうとして、突き放そうとして、ニナのときもそうやって見ないふりで、そして。
『……オレら付き合おうか』
あのとき、教師としての自分より、1人の人間としての自分を優先させてしまった。
同じ過ちはもうしたくない。
同じことをしてしまったら、たぶん今度こそ自分は壊れてしまう。
この子のそばにいて、この子を守れるなら。
重くのしかかる後悔から、自責から、恐怖から。
………救われたかったのは、オレの方だった。