最終話〈前編〉
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暖房の効いた車から出ると、ツンと冷気が鼻の奥をさした。
思わず肩を縮こめると、車から出てきた先生が『女の子は身体冷やしちゃダメなんだから』と、自分のつけていたマフラーを取って、ふわりとわたしの首に巻いてくれた。
「ふふ、先生のにおいがする」
『こーら変態、剥ぎとるぞ』
言葉とは反対に、先生はぎゅっとマフラーの結び目を作る。
浜辺には、わたしたちの他に誰もいなくて、波の音が低く響く。
冬の海が見てみたい、と言ったわたしに、先生は『〇〇が自分からしたいこと言うの珍しいね』となぜか嬉しそうに車を走らせてくれた。
ニナさんが訪れてきてから3週間。
わたしも、先生も、あの日のことや彼女のことに触れることはなく、ただ穏やかな時間を過ごしていた。
『あ』
「なんですか?」
『見て、ハート型の貝殻』
「ほんとだ」
砂浜の上から拾い上げた貝殻を、先生はニコニコとご機嫌に目の前でかざしたあと、無言でわたしのコートのポケットに入れる。
『あ、今度は星形の模様がついてる』
しゃがみこんで、またそれも、楽しそうにわたしのポケットに入れてくる。
3つ、4つと拾い上げるたび、それをポケットに詰め込んで、コートは片側だけ、どんどん厚く重くなる。
10分もしないうちにパンパンになったコートのポケットに、先生は『もう入んないや』と口を尖らせた。
『今度はもっと大きいポケットのコート着てきてよ』
「これ以上入れられたら、重さでわたしの肩が外れちゃいますよ」
『外せばいいよ、そしたらちゃんとオレが入れ直してあげるから。湿布も貼ってあげる』
真面目な顔をして言うものだから、思わず吹き出せば、つられたように先生も笑った。
『ねえ、オレのも』
「え?」
『オレのポケットにも入れて』
キラキラとした目で見つめられ、唸りながら今度はわたしがしゃがみこんで、砂浜の上を探す。
先生と違って、わたしは綺麗なものを見つけるのが不得意みたいだ。
しゃがみながら、止まってはめぼしいものを見つけられずにジリジリと移動して、また止まってはジリジリと移動してを繰り返し、わたしが動くたび、先生もその後ろを覗き込むようにちょこちょことついてくる。
目を皿にして探していると、視界の端で何かがきらりと反射した。
「…これ」
『ん?』
手に取った青いガラス片は、波に揉まれたからか角が取れて丸みを帯びていた。流れてきた海の色をそのまま写しとったような深く澄んだ青色は、冬晴れの光を吸い込んで、鈍く反射する。
「……綺麗」
『…うん、すごく綺麗』
振り返ると、先生もいつのまにかしゃがみこんで、目元を崩してくしゃりと笑っていた。
「はい、先生」
『ん、ありがと』
ダウンのポケットの中に青の破片を入れると、ますます嬉しそうに笑みを深めるから、むずがゆい気持ちになった。
先生の黒髪が、さらりと海風に吹かれる。
その先を辿れば、空と海の境に地平線がまっすぐ伸びていた。
『したいこと、たくさんしようね』
「したいこと?」
『うん。“決めるのは先生です” なんて言って、君はいつも自分のしたいことを言わないから。今日、海が見たいって言ったの聞けて、嬉しかった』
柔らかく口角を上げたまま先生は立ち上がって、わたしの手も引っ張って立ち上がらせる。
そのまま、わたしのコートのポケットに手をつっこむと、詰め込んでいた貝殻を取り出し、それを両手いっぱいに乗せたまま海へと近づいた。
波打ち際ギリギリに立った先生は、両腕を振り上げる。
手の中から、パッと白い欠片が花びらのように海へと舞って。
空と海の青。
その中を舞う貝殻の白。
風になびいた黒い髪。
それはまるで、祝福そのもののように見えた。
潮風が鼻腔をくすぐる。
こちらを振り返った先生に、靴と靴下を脱ぎすてて、わたしも波打ち際に向かう。
先生を追い越して波打ち際の向こうへ足を浸すと、芯から冷えるような温度の海水が、爪の隙間まで入り込む。水にさらわれて、ゆらゆらと足は輪郭を歪めた。
「…先生」
『なに?』
「わたしね、ずっと死にたかった」
遠くの空をカモメが飛ぶ。
冬晴れが眩しくて、目を細めた。
「みんなが普通に感じてることがわからなくて、恥ずかしくて。必死で笑ってみせて、必死で泣いてみせて、それが嘘だって、いつバレて軽蔑されるかすごく怖かったんです」
地平線に一歩近づけば、足首まで海に覆われた。
「楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、よくわからない。淡々と、わたしの前を流れるもの全て、灰色にしか見えませんでした」
砂利が足の裏を引っかいて、冷たさは次第に痛みへと変わる。
太宰の最期は、愛人との入水自殺だった。
お互いを紐で括りつけて川へと身を投げた彼らが、最期に感じたのもこんな冷たさだったのかもしれない。
スカートを持ち上げ、地平線に向かってゆっくりと歩を進めると、波が膝の下を濡らした。
「無彩色の世界で、早くこの羞恥や恐怖から逃げたいって、いつ死ぬのが一番いいんだろうって、ずっとぼんやり考えてました」
『〇〇、』
大きな波が来て、スカートの裾が濡れた。それにも構わずに、また一歩、足を進める。
「だからね、先生。わたし───、っ!」
踏み出した足は、強く引っ張られた力によって、後ろに着地した。
掴まれた左腕に、持ち上げていたスカートは、はらりと宙に舞い、海の中へ落ちる。
「……先生なにしてるんですか。靴もズボンもびしょ濡れですよ」
『…〇〇』
「死にませんよ、わたし」
海を背にして向き合うと、先生の瞳は大きく開いた。
「死ぬわけないじゃないですか。だって先生に出会えたんだもん」
掴まれた腕をそっとほどいて、その手を握りなおす。
「先生に会ってから、陳腐な言い方だけど、世界が一変したんです。あれだけずっと無彩色にしか見えていなかった世界が、どんどん鮮やかに彩られていった。こんな世界があるなんて知ったら、死ねるわけないじゃないですか」
冬の海は、ずっと暗いものだと思っていた。
灰色で、孤独を鳴らして、凍えそうなほど冷たくて。
だけど、違った。
空気が澄んだ空はどこまでも高くて、海は青く透明でキラキラと反射して、何より、今わたしの中にある手は、じんわりと温かい。
たくさんの色にあふれて、ほら、世界はこんなにも美しい。
「先生、大好きだよ」
『……うん』
その目がうっすらと水の膜で覆われていたのは、見ないことにしてあげた。
びしょびしょに濡れた靴と靴下のまま、先生はいつも通り、わたしを家の近くまで送り届けてくれた。
『あったかくして寝なね』
「その言葉、そっくりそのままお返しします。早く帰ってあったかいお風呂にでも入ってください」
『いやマジでそうする。めっちゃ寒い』
顔をしかめた先生に笑いながら、あ、と気づいて、首に巻かれたマフラーをほどく。
「これ、ありがとうございました」
『いーえ。でも、今度はちゃんとあったかい格好してくること。それと、次行きたい場所も考えてきて。君のしたいことをしよう』
いつものようにポンと頭に置かれた手は、やっぱり温かくて、胸がくすぐったくなった。
ぎゅっと目を閉じて、その体温を噛み締める。
この手を、ずっとずっと、覚えておこう。
わたしの、道しるべ。
「先生、わたしあります。したいこと」
『ん、なに?』
「さよならが、したいです」
『………え』
「こうやって先生と会うの、これで最後にしたいです」
小さく微笑めば、先生は訳がわからないというようにうっすらと開けていた唇から、『…どういうこと』と抑えた声を漏らした。
視線を落とすと、ダッシュボードが目に入って、あの日のニナさんとの会話を思い出した。
何を言われようが、何を聞こうが、わたしは何も変わらない。
終わり方は、あの保健室の時から決めていた。
先生が彼女の名前を呼んだあの時から。
そして、わたしを助けに来てくれた先生の腕の震えと、怯えを浮かべた赤い目を見た時に、より強く。
『……オレ、なんかしたかな』
「ちがうよ、そんなんじゃない」
『じゃあ、』
「ちがう。先生のせいじゃなくて、これはわたしのわがままだよ」
『……決めるのはオレだって、君が言ったのに?』
「……ごめんね」
暗い車内で、先生の顔には濃い影が落ちていて、どんな表情をしているかわからない。
だけど、頭を落とした先生の手を取ると、小さく震えていた。
「……せんせ、聞いて」
その手を両手で包み、力を込める。
「先生はね、人を上手に愛せる人だよ。先生に出会えたから、わたしは生きようって思えたの」
強くなる震えを押さえ込むように、先生はわたしの手をきつく握りしめる。
それは、まるですがられているようで、でも。
「ねえ、先生。……過去に何があったか詳しくは知らないけど、でも、大丈夫だよ。わたしが何よりの証拠でしょう? 先生は、1人の人間を救えちゃうくらい、温かい愛し方ができる人」
どうか、この言葉がやさしく届きますように。
「怖がらなくて大丈夫。…今度は先生が好きな人を、その温かさで愛してあげて」
この人を助けたかった。
わたしが救ってもらったように。
わたしのことは、忘れてしまってもいいから。
ゆっくりと、震える手を撫でる。
震えがおさまるまで、そうしていた。
窓の外を見ると、ちらほらと白いものが降っていた。
初雪だった。