最終話〈前編〉
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翌日、先生は学校を休んだ。
「中島先生も休みだし、今日こそは放課後パフェ付き合ってもらうからね〜!」
「たまには友だち孝行しろ〜」
「もぉ〜わかったってば!」
帰りのHRが終わるのと同時に、友人たちに両腕を取られ、そのまま教室から連れ出される。
駅前にできた喫茶店のパフェが、と楽しげに話す彼女たちと一緒に校門を出たとき、車のドアを閉める音が聞こえた。
音の方向を振り向くと、黒いバンの隣にサングラスをかけたショートカットの女性が立っていて、こちらに向かってひらひらと手を振った。
「昨日ぶりね。会いにきちゃった」
サングラスを外して、ニナさんの緩やかに釣り上がった大きな目があらわになると、訝しげに彼女を見ていた友人たちの顔に、みるみる驚きの色が浮かぶ。
……あんまり彼女をここに長居させるのは得策じゃなさそうだ。
「えっ嘘、もしかしてモデルの、」
「わぁ〜会いにきてくれたなんて嬉しいですっ!やったぁ!」
身を乗り出そうとした友人をさえぎって、彼女の腕を取り、車の方へ引っ張る。
彼女が車に乗ったのを確認し、
「ごめん!用事できちゃった。この埋め合わせはいつか必ずするから!」
と、唖然としている友人たちに言い残して、わたしも助手席に乗り込む。
「早く出してください」
ニナさんはこちらを一瞥し、「シートベルトしてね」と笑ったあと、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
彼女に連れてこられたのは、一般女子高生は到底足を踏み入れられないような高級ホテルのラウンジだった。
「ごめんね、静かに話せるかと思ってここにしたんだけど、高校生ならカフェとかの方がよかったかな?」
「いえ、こういうところでむしろ安心しました。あなたは目立つので」
「あれ、わたしのこと、もしかして知ってた?」
「……本屋であなたが表紙の雑誌をよく見かけます」
藤野ニナ。ティーンや若いOLに人気の、黒いショートボブがトレードマークのファッションモデル。
たしか実家は高級老舗料亭、母親も元女優で、教室内で彼女の載った雑誌をめくりながら「天って二物も三物も与えるんだねぇ〜…」と友人たちがため息をついていたのを覚えている。
昨日、その姿を見たときに、すぐ彼女だとわかった。
「なんだ、言ってくれたらよかったのに」
彼女は、アイスティーの氷をカランとストローで転がしたあと、きゅっと口角を持ち上げた。
「全然ちがうんだね」
「え?」
「お友だちの前と、わたしの前と。話し方が全然ちがう」
「…ご要望であれば、あちらの話し方にしますけど」
「ううん。あなたの“本当”はこっちでしょ?わたしもこっちの方が話しやすいし」
「…そうですか」
「健人の前では、また違った話し方になるのかな?」
不意に出された名前に、カップを取ろうとしていた手が止まる。
目の前のコーヒーに落としていた視線を上げると、頬杖をついて微笑むニナさんと目が合った。
「今日、健人、学校に来なかったでしょう?」
「…はい」
「おじ様とおば様…ご両親に会いに行ってるの」
「…それが?」
言っていることの要領が掴めずにいるわたしに、ニナさんは片眉を上げ、「…本当に何も知らないんだ」と呟いた。
「わたしと健人がどういう関係だったかは知ってる?」
「…直接聞いたことはないですけど、元恋人同士だということは、なんとなく」
「んー、半分正解で半分不正解」
アイスティーをゆらゆら揺らして、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「正しくは、元婚約者」
「…婚、約者?」
「そう。今どき親同士が決めた政略結婚なんて流行らないけどね。まだあるのよ。良い家柄や大企業の子息たちを学生のうちから会わせておいて、自然と結婚の流れに持っていこうっていうような、親同士の公然のナイショバナシが。わたしたちが最初に会ったのは、お互い大学生の頃だった」
彼女は赤い唇から、小さく息を吐いた。
「知ってるかな? ××っていう化粧品ブランド。健人、その会社の一人息子だよ」
思わず、息を飲んだ。
××といえば、国内化粧品メーカーの最大手だ。
CMで起用される女優が毎回話題に登るような、超有名ブランド。
デパートで、真剣な顔をして化粧品売り場を見て回っていた先生の顔が浮かぶ。
そうだ、××の看板商品は───口紅だった。
「…でも、それならなんで教師に」
「……最初は親同士が決めたことだったけど、わたしたちは互いを好きになって付き合い始めた。だけどそれは、あるとき決定的に破綻した。原因はわたしだったけど、健人はわたしたちの両親の前で “自分のせいだ” って言ったの。でまかせの嘘を並べて。それを信じて激昂した健人の両親は、健人を勘当した。だから彼は会社を継がず、あの家からも離れて、大学を卒業してから別の道に進んだ」
「…今日、先生はご両親に会いに行ったんですよね。和解したんですか?」
「和解ではなく、話し合いね」
「……会社を継ぐか、継がないか、ですか」
「あなた、話が早くて助かるわ」
彼女の猫のような目は、綺麗な弧を描く。
「もともと、おじ様もおば様も、一人息子の健人のことをとても可愛がっていた。勘当したとはいえ、会社を継いでもらいたいと思い続けているのは周りの誰もが知っていた。だけど、健人は健人で、もう別の人生を歩み始めていて、それを“やっぱり戻ってこい”と言うのは、あまりにも勝手で……でもね、状況が変わったの」
「状況?」
「この間、おじ様に腫瘍が見つかった。幸い良性で大事に至ることはなかったけど、それをきっかけに、おじ様たちは真剣に健人を呼び戻すことを考え始めた」
「…ニナさんは、昨日その話を先生にしに来たんですか?」
「そう。だけどね、健人には言わなかったことが1つある。……おじ様たちはあなたのことを知っている。健人との関係も」
「…そうですか」
小さく頷いたわたしを見て、ニナさんは意外そうに目を見開いた。
「驚かないんだ」
「あなたがわたしを学校の前で待ってた時点で、どうせわたしの住所から交友関係まで、全部知られてるんだろうと思ってました」
「あ、そっか」
びっくりさせたかったのに迂闊だったわ、と彼女は軽快な声で笑ったあと、ゆったりとした動作でまたアイスティーを口に含む。
「おじ様たちもね、なるべく、その手札を使いたくないと思ってる。わたしのこともあったから、あまりそういうことには口を出したくないだろうし、何より健人を脅すことになるからね。…でもね、おじ様たちの意思は固い。健人の態度次第では、それを使わざるを得なくなるかもしれない」
「…あなたはそれをわたしに言って、どうさせたいんですか」
長い睫毛が持ち上がり、猫のような彼女の目が、試すようにわたしを映す。
「別にどうも。わたしはただの見物人。この話を聞いたあなたがどうするのか見たいだけ」
「……わたしは変わりません、何も」
彼女はこちらをじっと見つめたあと、ふーん、と呟き、興味を失ったようにフッとその瞳の光を消した。
しばらく2人とも黙り込む。沈黙と比例して、BGMのクラシックがよく聞こえるようになって、向こうの席の話し声やボーイの食器を扱う音が響く。
わたしたちの横を通り過ぎた女性のスカートが翻り、その深紅が、彼女の唇の色と重なった。
「…健人は、わたしのことをまだ好きだと思う?」
視線を戻すと、彼女は口元に小さく笑みを浮かべたまま、丁寧に塗られた爪先を遊ばせながら、ストローでアイスティーの氷をつついていた。
落とされた呟きは、わたしへの問いかけというよりも、彼女の独り言のように聞こえた。
「あなたと話してみて、どうして健人があなたの隣にいるのかよくわかった」
「………」
「きっと、あなたは生きてる実感が持てないんだね。空虚な人生に絶望して、それでも価値を探して、すがって、諦めている」
「…そんなこと、」
「わかるの。わたしも同じだから」
有無を言わせない声音だった。
なめらかな深紅が、優然と動く。
まるで、猫のようにしなやかに。
まるで、同情するように。
「……ニナさんは、先生のことが好きなんですか」
「うん、好きだよ。とてもね」
「…そうですか」
ふっくらと微笑んだ彼女の目元は、優しくにじんでいた。
一口残っていたコーヒーを飲み干して、立ち上がる。
「……たぶん、先生もあなたのことがずっと好きですよ」
喉に残ったコーヒーが、少しだけ苦しい。
本当は、わたしは芸能人なんて全く興味がないし、顔は見たことがあっても名前まで一致している人なんて数える程しかいない。
だけど、あのシンプルな車内の中で、ダッシュボードの中に無造作に置かれたパンフレットやファッション誌。
先生と出かけるときに何度か、昨日、タオルを取り出したときにも目に入ったそれらの表紙は、すべてニナさんだった。
彼女が会う前からわたしのことを知っていたように、以前、保健室で聞いた名前はこの人のことだったのかと、表紙に大きく記された“藤野ニナ”の名前に、早い段階でわたしも彼女を知っていたのだ。
そのパンフレットやファッション誌には、何度も読み返したのだと一目でわかるくらい、年季の入った折り目がついていた。
だけど、そこまでは教えてあげない。
いちいちわたしの反応を楽しんでいるような口ぶりと、何よりあまりに綺麗な彼女の微笑みに、少しだけ、意地悪をしたくなってしまった。
「それじゃあ」
「あのね」
背を向けようとした足を止める。
彼女はひとつ息をつく。
「……健人を繋ぎ止めるにはね、たくさん困らせることだよ。……健人は優しいから」
初めて、その声は小さく揺れた。