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『恥の多い生涯を送ってきました』
『自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです』
ページの上に落ちていた視線は、句点分の余白を守ったあと、教卓の前からさらりと撫でるように教室を見渡した。
『この “恥の多い生涯を送ってきました” という冒頭は、「人間失格」の書き出しとして広く知られています。主人公は、幼いころから他人の感情を理解できず苦しみ、そしてそのことが周囲に露見するのを恐れて、必死で周りと合わせて笑い、泣き、「道化」を演じる。「人間失格」は、そんな主人公の、人生への絶望や孤独が描かれている作品です』
中島先生は口元に穏やかな笑みを浮かばせ、長い指を後ろで組みながら、ゆっくりとした足取りで机の間を縫うように歩き始めた。
5限だっていうのに、シャンと伸びてる背中が多いのは、先生が授業のとき教室を歩くタイプだってことだけが理由じゃないだろう。
去年の現代文の授業は、みんなカクンと頭を落として格好の昼寝時間になっていたけど、今年の現代文の授業はとにかく睡眠率が低い。それも、特に女子の睡眠率が。
『「人間失格」は、作者の太宰治自身の人生を色濃く反映した自伝的小説だと言われています。「人間失格」は太宰が完結させた最後の作品でもあり、そういう意味でも、この作品を太宰の遺書だと解釈している人も多い』
足音は教室を半周して、窓側のわたしの席の方へ向かってくる。
後ろから近づく先生をちらりと振り返る。
丸めて持ったノートは、いつもの青いノートじゃなくてオレンジ色のものだ。先生は案外片付けが苦手で、在中してる図書司書室は魔窟みたいに物が散乱してるから、きっと探すのを諦めて新しいのを出したんだろう。
その光景を思い浮かべて小さく笑っていると、眼鏡の奥から覗いた瞳と視線があった。
俯いて落ちた前髪が眼鏡の丸いフレームに乗っかっていて、ちょっと可愛い。
唇を持ち上げて片手で指ハートを送ると、横を通り過ぎるときノートでポンと机を叩かれ、“集中しなさい”と口パクで言われる。
太宰の説明を続けながら教卓の方へ去っていく先生の背中を見つめ、シャーペンをくるくる指先で回しながら下唇を突き出した。
今日もラブコールは失敗。
その様子を見てクスクス笑う隣の席の友人に、“失恋ぴえん”と口を動かして泣き真似をしてみせると、彼女は “今日もおつかれ” と同じように口を動かした。
チャイムが鳴って、教卓で教科書やファイルをまとめている先生に「せんせ〜!しつもんで〜す!」と走り寄れば、整った眉毛が、“またか” というように持ち上がった。
『…今日の質問はなんですか?』
「あっ先生めんどくさいと思ってる?毎回質問しにくるわたしのことめんどくさいと思ってる?!」
『君のその態度は若干めんどくさいなと思うけど、勉強熱心なのはいいことだよ。…それで質問は?』
「えーっと、人間失格って太宰の自伝的な部分もあるって言ってたじゃないですか。てことは、太宰もこの主人公と一緒で女性関係ヤバかったってことですか?それとも恋バナ盛って話しちゃうタイプのアレですか?」
首を傾げたわたしに、先生は深いため息をついた。
『大文豪の名作を恋バナって………まあいいか。どちらかといえば太宰自身の恋愛遍歴は、人間失格よりも、もっと過激だったと言えるかもね。浮気や不倫は日常茶飯事、5人の女性と深く付き合ったと言われているけど、そのうち3人と心中事件を起こしてるから』
「えぇ…メンヘラすぎません?ドン引きなんですけど」
『文豪をメンヘラ呼ばわりはやめなさい』
「ていうか、3度も心中って、全部違う相手とってことですよね?めちゃくちゃ自分勝手で迷惑な人じゃないですか」
『迷惑な人、か……』
それまで呆れ顔でわたしを見ていた先生の目が、ふっと何かを手放したように細まって、眼鏡の奥の瞳が、薄くグレーの膜で覆われる。
『……たしかに彼のしたことは許されることではないけれど、でも、一緒に落ちていくことを周りの人間が愛だと錯覚してしまったことは、彼の不幸だったんじゃないかな』
わずかに落ちた声は、『それと』と続けられた言葉ではもう元の調子に戻っていて、瞳も柔らかな光を携えていた。
『太宰にまつわる女性関係なんて有名なエピソード、僕が説明するまでもなく優秀な頭脳を持つ特待生の君が知らないはずはないと思うんだけど?』
「ゔぇ?!」
図星をつかれて目線を泳がす。
しまった、間違えた。
だって太宰治は中学の時に全巻読破したから、正直いまさら質問なんて思い浮かばなくて、わざと無知のふりをしたけど、どうやらバレバレだったみたいだ。
『もっと有意義なことに時間を使いなさい』
呆れた目で見下ろす先生に、むう、と唇を尖らせて反論する。
「そう思うならそろそろ振り向いてくださいよぅ、わたしはこんなに先生のこと好きなのに」
ラブです♡、とハートを形作り伸ばした両腕は、『はいはい』とあっけなく先生に降ろされた。
『君は生徒で、僕は教師です』
ね、学年1位の〇〇ならわかるよね?、と子どもに言い聞かせるように、先生はわざとらしくニコニコと笑みを浮かべる。
「え〜〜だって森鴎外の“舞姫”も近松門左衛門の“曽根崎心中”も身分違いの恋ですしぃ〜わたしたちだってどうにか、」
食い下がった声は、シィーと唇に当てられた人差し指に遮られた。
『…少なくとも、オレはくっきり引かれた口紅よりも、色付きリップクリームくらいの唇の方が、年相応の綺麗さが引き立って好きだけどね』
赤く塗った唇の端を、ふに、と押し上げるように動いた親指は、そのままするりと離れて、先生は教室から出ていった。
………今日も完敗だ。
うなだれながら席へ戻ると、すぐに友人たちの冷やかしの声が飛んでくる。
「〇〇、まぁた中島先生に告ってたでしょ」
「告った…そして今日もうまいことかわされた……でも今日も世界一かっこよかった……だいすき……」
「重症だこりゃ」
「あんた、ほんとめげないっていうか、特待生のくせして、なんかアホっぽいっていうか」
「うぅ…なんか貶されてる…?」
「ちょっとやめなよ!勉強も運動もなんでもできるくせに、びっくりするくらい天然バカなとこが〇〇の可愛いとこなんだから」
抱き寄せられた制服から香る匂いに、たぶんこれはシャネルの新作香水だろうな、と当たりをつけながら「いい匂い……」と友人の胸に顔をうずめると、「あ、気づいてくれた?新しいの買ったの」と上から嬉しそうな声が聞こえた。
さすが幼稚舎からこの学校に通う生粋のお嬢様たちは、高校から中途入学したわたしと違って、身につけるものも桁違いだ。
「バカでアホですみませんでしたぁ」
ジト目で頬を膨らませたわたしを、友人たちは「拗ねないでよ」とケラケラ笑う。
「違うって。あんたは愛すべき存在ってことだよ。特待生っていうからどんな陰気な真面目ちゃんが来るかと思ってたけど」
「いやほんと、〇〇みたいな子でよかったって。中島先生のこともさ、あんたなら微笑ましく応援できるっていうか」
あーゆー人と違って、と廊下側の席に向けられた視線の先には、女子生徒が背中を丸めて1人で座っている。
背中まで伸ばした髪の毛は陽の光に照らされて、ブラウンアッシュを透かして綺麗だ。
「岸井さんの中島先生へのアプローチひどかったもんね。あからさますぎっていうか見るに堪えないっていうか。ついにこないだ、はっきり振られたらしいけど」
「実家、音響系のメーカーだっけ?いっつも取り巻きつくって、“お父さまにエルメスのバッグを買ってもらったの” とか、自慢ばっかして偉そーにしてたけどね〜」
「そうそう、でも会社の経営が悪化した途端、その取り巻きたちも現金なほど誰一人いなくなったし、そのタイミングで失恋ってさすがに不憫〜…」
そこに込められていたのは同情だったのか、好奇心だったのか。
わたしにはわからなかったけれど、彼女たちは興味を失ってすぐに別の話題に移ったから、わたしもそれ以上考えないようにした。
友人の話に笑いながら相槌を打つ。
ただ、もう一度こっそり見た岸井さんの手は、机の下で小さく震えていた。
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