その蝶はやがて飛び立つ
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人生で初めて、彼氏ができた。
1番好きな人ではないけれど。
目を覚ましたのは、西日のせいでも初秋の肌寒さのせいでもなく、カチカチとプラスチックが擦れる音のせいだった。
まぶたの隙間からうっすらと入ってくる光の中で、本棚の前に立つ影が見える。
この部屋にわたし以外の誰かがいることに、もう慣れてしまった。
「……いくらアパート隣どうしだからって、勝手に入るのやめてってば」
『窓の鍵いっつも閉めねえのが悪りぃだろ』
毎回繰り返すわたしの言葉に、風磨くんもいつもと同じ返事をして、一拍遅れてから『おはよ〜』と、差し込むオレンジの光に似つかわしくない言葉を呟いた。
今日は大学もバイトもなかったんだろうか。わたしが帰った時、壁の向こうから物音がしなかったからいないのかと思ってたけど、たぶん寝てたんだ。本棚に並べてあるDVDをいつものように物色する風磨くんの頭には、くるんと寝癖がついていた。
柔らかな黒髪。
高校の頃、ゆるい校則にかこつけてピンクとかシルバーとか頻繁に変わっていた風磨くんの髪色は、そのとき中学生だったわたしに4年という歳の差を嫌というほど突きつけた。だけど今、大学生になった風磨くんはわたしと同じ黒髪のはずなのに、なんでかあの時よりもっと果てしない距離を感じる。
『今日はこれに決ーめた』
並んだDVDの中から1つを取り出して、パカンとパッケージを開け、慣れた手つきでプレイヤーにセットする。
「毎回わたしの部屋来るけどさ、自分の部屋で見なよ」
『オレの部屋のプレイヤー調子悪いし』
「それ、もう何年も言ってるじゃん…いい加減買い替えなって」
『それに映画は誰かと見た方が楽しいじゃん?』
な?と笑う顔は、“部活に入ってなくて暇だから”と言ってわたしの部屋で映画を見出した数年前よりずっと大人びて、華奢だった身体つきはいつのまにかがっしりと大きくなった。
ため息をついて背のベッドに寄りかかると、わたしの機嫌をとるかのように、風磨くんは『ちゃんと手土産持ってきたし』と袋を取り出した。
『ほら、ポテチ』
「え〜うすしお?わたしソルト&ビネガー味が好きなんだけど」
『は?おまえどこでそんな洒落た味おぼえてきたんだよ』
JKはうすしおでじゅーぶん、と風磨くんは開けた袋からポテトチップスを一枚取り出して、そのままわたしの口に押し込む。
こうやってわたしを子ども扱いするところは、全然変わらない。
すとんと風磨くんがわたしの隣に座ったのと同時に、画面から音楽が流れ出して映画が始まった。
買ったとき一度見たきりだった映画。
画面の中の男女は、昼時のカフェで静かに別れ話をしている。
あのときは陰鬱な映画だなぁと思っただけだったけど、今見るとファッションとか小道具とか照明とか、わりと好みだ。
この数年で、風磨くんと同じようにわたしも変わった。
ポテトチップスを噛み砕く。
「ねえ風磨くん」
『ん?』
「次からは自分の部屋で映画観てね。わたし彼氏できたから」
『…ふーん』
ふーんって、いや、違うじゃん。
もっとなんかこう、あるじゃん。
口を尖らせそうになって、いや、でも、と思い直す。
風磨くんにとっては、妹みたいな幼なじみに彼氏ができたことなんて、“ふーん”くらいのことなんだろう。
わたしとしては、長年秘め続けた初恋を2文字プラス伸ばし棒で終わらせられたのは、いささか不服ではあるのだけど。
それでも、風磨くんがわたしの不満を知る由もないし、知られたいとも思わない。
映画の中の彼女は、俯きながら、彼に向かって告げる。
〈あなたを好きでいるわたしに疲れてしまったの〉
……そうだね、わたしも疲れてしまった。
帰ってきてから真っ先に隣の部屋のことを考えてしまうのにも、時折聞こえるベッドの軋む音と甲高い喘ぎ声にテレビの音量を上げることにも。
「……もう窓の鍵も閉めるから」
小さく付け加えた言葉は、真っ直ぐ映画を見たままの風磨くんには聞こえていなかったかもしれない。
薄暗くなった部屋で、テレビの光に照らされて風磨くんの横顔が白い輪郭を持つ。
その横顔に胸が鳴ってしまうのも、もう全部、途方もなく疲れてしまったんだ。
好きって言われたから付き合った。
手を繋ぎたいって言われたから手を繋いだ。
キスしてもいい?って聞かれたから、いいよって言った。
「じゃあ送ってくれてありがとう。バイバイ」
ほどいた手をヒラヒラと振れば、彼は少しだけ残念そうな顔をして、また明日、と来た道を引き返していった。
階段を登って家のドアを開けるのと同時に、無意識に張り詰めていた大きな息が漏れ出た。
ただいま、と誰もいない家に向かって呟き、真っ直ぐに台所に向かう。
季節はすっかり涼しくなったのに、変に汗をかいてしまって喉がカラカラだった。
今日は夜中まで部屋にこもって映画を見よう。
冷蔵庫から出した麦茶とコップを持って、自分の部屋のドアを開けると、香水の匂いがした。
『おかえりー。あれ、オレの分のコップは?』
「……なんでいるの」
『ソルト&ビネガー?やっと見つけたから買ってきた』
2週間ぶりの風磨くんは、噛み合っていない返事をして、得意げに袋をわたしに見せた。
ため息をついて、黙っていつもの場所に座ると、風磨くんも当たり前みたいにディスクをプレイヤーにセットする。
持ってきてくれたポテトチップスをに手を伸ばせば、風磨くんが『んあ』と口を開けてきたから、無言のまま口にポテチを差し込んだ。
結局、いつもどおり。
わたしの2週間前の勇気をなんだと思ってるんだろう。ていうか、2週間前の記憶が全部飛んでしまったんじゃないだろうか。
ちょうど映画は、相手の女の人が記憶喪失になってしまって、本人に言えない悪態を、かわりに心の中でぶつぶつと画面の彼女にぶつける。
全部忘れてんなよ。ばーか。あーほ。だいっきらい。
『…意外と美味いね、これ』
画面に目を向けたまま、風磨くんがパリパリとポテチを噛み砕く。
「まずいと思ってたの?」
『だってポテチに酢ってさ。てか、おまえはもっと薄味が好きなのかと思ってた』
「……風磨くんちで一緒にご飯食べてたの3年前でしょ。わたしだって変わるよ」
風磨くんは、画面に目を向けたまま『…知ってる』と小さく笑った。
知ってるって、全然風磨くんは知らないよ。
わたし、もう制服のリボンを綺麗に結べるようになったし、嫌いだった牛乳も去年克服した。メイクだって薄くだけどするようになったし、それに、好きじゃない人とも付き合えるようになった。
風磨くんが、大人になったぶん、わたしだって変わったんだよ。
「……なんで来たの」
好きって言われたから付き合った。
手を繋ぎたいって言われたから手を繋いだ。
キスしてもいい?って聞かれたから、いいよって言った。
気持ち悪くて吐きそうになりながら、全部我慢したの。
ねえ、だからもう放してよ、風磨くん。
『だっておまえ、窓の鍵、2週間ずっと開けてたろ』
つまんだポテトチップスが、指先でパリンと割れた。
───どうしたってわたしは、変われないままだ。
〈boy’s side〉
いや、違うだろ。
反射的にそう思ったあと、はたしてそう思う権利がオレにあるのか、そもそもオレは何を否定したのか、自分でもわからないことに気づいて、『ふーん』と肯定にも否定にもならない相槌を打った。
今考えると、もうちょっとマシな返事の仕方があったと思う。
“わたし彼氏できたから”
画面の中で人物たちが動き回る合間、こっそりと横目で窺うと、彼女は真一文字に唇を引き結んでいた。
それが2週間前。
〈ねえ、聞いてる?〉
『あ、ああ』
〈信じらんない。こんなときまで上の空って……はぁ、もういいよ〉
さっきまで“恋人”という関係で、たった今“元恋人”になった目の前の女は、呆れたようにため息をついた。
伝票を持って立ち上がった彼女に、『あ、ねえ』と話しかけると、彼女はわずかに動きを止めたあと、〈何?〉と、くるりと振り向いた。
『…ソルト&ビネガー味のポテチ、どこに売ってるか知らない?』
〈……っ、最っ低!自分で探せ!〉
彼女は持っていた伝票をバンッと机に叩きつけ、オレを憎々しげに睨んで、勢いよく店を出ていった。
やっとのことでちょっとお高いスーパーで見つけたそのポテトチップスを片手に、〇〇の部屋で彼女を待つ。
程なくして帰ってきた彼女は、オレを見て、ため息をついた。
なんだか今日はよくため息をつかれる日だ。
2週間前となんら変わりないように、2人で映画を見る。
ただ2週間前と違うのは、とっさに出たあの否定の言葉がはっきりと輪郭を持ったこと。
ベランダから見えた、彼女に手を振り返す男に、ああ、違うってこういうことだったのかと腑におちた。
「わたしだって変わるよ」
少しだけ尖った口調に、思わず笑ってしまう。
知ってるよ。ずっと隣にいたんだから。
「…なんで来たの」
むしろ、気づいてないのはそっちの方だ。
『だっておまえ、窓の鍵、2週間ずっと開けてたろ』
ポテトチップスが、パリンと割れる。
彼女の手を掴み、指先についた破片を舐めとると、しょっぱさの中に、少しだけ甘い香りがした。
どこか既視感があるなと思っていたこの映画は、やっぱり一度見たことがあった。
戸惑うように、オレを見上げる瞳が揺れている。
ごめんな。
オレの部屋のプレイヤーはとっくの昔に修理したし、そもそもオレは1人映画の方が気楽で好きなんだよね。
全然、気づかないんだもんな。
クライマックス。幾多の困難を乗り越えた恋人たちを描いたこの映画のラストシーンは、ほら、記憶通り。
画面の中の2人は、オレたちと同じように、唇を重ね合わせていた。
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