僕らは火星に行けなかった
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明後日10月6日には、最接近した火星が夜空に見えるでしょう。
昨日の昼間に何気なくラジオから聞こえた声は、そのまま夢でも同じ音程で流れた。
ふっ、と糸が切れるみたいに目を覚ますと、もういいかげん見慣れた小さなシミのある天井と、隣で丸まりながらすぴすぴと寝息をたてる聡くんが見えた。
6畳半のこの部屋でこうして目を覚ますのも、もう何度目だろう。
たぶん聡くんのたくさんいる友だちは、大学で誰とも話さないわたしがこうして聡くんの家に出入りしてるなんて思いもしないだろうな、でも、ううん、「聡は優しいから」って逆に納得されるかな。
親に用意された高層マンション23階の自分の部屋は、モデルルームみたいに真っ白で綺麗で、いつも広すぎて。
窓から見える東京タワーは、寂しさや疎外感の輪郭をはっきりとさせる。
赤い光は、まるで全部から逃げ続けるわたしを責め立てるようで嫌いだから、カーテンはもうずっと閉めっぱなしのまま。
暗い部屋で、地元の同級生の楽しげなSNSを見ていると、どうしようもなく息が苦しくなって、だから、いつもすがってしまうんだ。
「今日家に行ってもいい?」ってLINEしたら、そのあとは2パターン。
「いいよ〜」って返信が来て、部屋のピンポンを押したらニコニコ笑って迎え入れてくれて、「とりあえずお酒飲む?」って聞かれるか。
「今日予定あるから部屋入ってて」って返信が来て、深夜か明け方、わたしが寝ているうちに知らない匂いを身にまとって帰ってくるか。
今日は後者だった。
隣で眠る聡くんの髪をそっとすくって、顔をうずめる。
茶色く柔らかい髪の毛からは、聡くんの部屋に置かれてるのとは違う種類のシャンプーの香りがした。
こんな何の花かわからないような香りよりも、聡くんが「安かったぁ」って買ってきたお得用のシャンプーの匂いの方が好きなのに。
でも、もしそう言ったら、聡くんは困ったように眉を下げるんだろう。そして、もうこの部屋に入れてくれなくなるかもしれない。それが怖くて、とてもじゃないけど言えない。
手に取った髪の毛をくしゃりと握りつぶすと、『…んん』と聡くんがうっすらとまぶたを開けたから、慌てて手を離した。
「……おかえり聡くん」
『…んふ、ただいまぁ』
さっき離した手は、聡くんによって絡めとられて。
聡くんの手は、いつもちょっぴり冷たい。
手が冷たい人は心が温かいんだよって話は、だから本当なのかもしれないな、と握るたび思う。聡くんは、みんなに優しいから。
ねえ、聡くん。繋いだこの手で、今日は誰の髪を梳いて、誰の肌に触れて、……わたしにそうするみたいに、誰を慰めてきたの。
身じろぎをすると、遠くからサイレンの音がした。救急車かパトカーか、それとも消防車か。真夜中に頻繁になるサイレンは、上京したての頃は誰かが起きていることの証明のように思えたけど、今はどこか「あなたには関係ない」と突き放されているような気がして。
耳鳴りが、ひどい。
「……東京ってうるさい」
眉をひそめたわたしの肩を、ふわりと聡くんは抱き寄せる。
『…静かなとこに今度行く?どっか地方とか』
「…田舎はもっとうるさいよ」
『…そうなの?』
「そうなの」
きょとんとする聡くんの手に、きゅっと力を込める。
あの子がグループの後継の娘かって、地元の同級生は誰もがわたしを名前よりも名字で先に覚えた。わたしに向けられる目線はいつもフィルター越しで、友だちの作り方なんて知らないまま高校を卒業して、上京した。
4年という期限つきの逃避行。残り時間はあと1年とちょっと。
それが終われば、わたしの人生は決まりきったレールの上を、ただ意志なく走るだけ。
『じゃあどこがいいの?』
微笑まれて、一瞬言葉につまる。
どこに行けばいいんだろう。
都会も田舎も嫌なら、じゃあ外国? でも外国に行ったってこの閉塞感や虚しさから逃げられるなんてちっとも思えなくて。
だってきっとどこに行っても、わたしは聡くんの優しさにすがって、慰めてもらって、この腕がわたしだけのものじゃないことに、1人よりもずっと寂しくなる。
───ああ、そっか。もう逃げられるとこなんてないんだ。
唐突に気づいた事実へ驚きを全く感じなかったことに、思わず笑ってしまった。たぶん、薄々どこかでわかってた。
「それなら、火星にでも行こうか」
『火星?』
「うん、火星」
聡くんがいつもそうするように、わたしもふわりと笑う。
ねえ、君を好きな気持ちだけでどうして生きていけないんだろう。他には、わたしにほんとのことなんて、信じられるものなんてひとつもないのに。
そう考えるたび、自分の好きの気持ちの無価値さにたどりつく。
ただ聡くんのことを好きな気持ちだけで、食欲も睡眠欲も無くして、その気持ちだけで身体をいっぱいに満たせてしまえたら、そしたら聡くんの周りの女の子の誰よりもわたしの気持ちが1番大きいってことになるのかな。聡くんはわたしを1番にしてくれるのかな。
……なんて、もう終わりにしなきゃね。
聡くんはしばらくわたしをじっと見つめて、そのあと額に小さく口づけた。
『じゃあ明日、待ち合わせしよっか』
火星に行こう、と聡くんは冷たい手で、わたしの頭を引き寄せた。
言われた時間に待ち合わせ場所へ向かえば、遅刻魔の聡くんは珍しく先に来ていた。
一緒に手を繋いで水族館を回って、イルカショーなんか見て。
近くの小さなイタリアンバルでパスタを食べてワインをたくさん飲んで。
すごくすごく楽しくて、ずっとこの時間が続けばいいのになあ、なんて思ってしまうのを何度も打ち消した。
今日でもう全部終わりにしようと決めていた。
昨日はなんだかうまく眠れなくて、聡くんの部屋の匂いとか、切れたまま放置されてる蛍光灯とか、そんなことをずっと思い出していた。
あったかくて、ほっとして、どうしようもなく救いがないあの部屋が、わたしはとても好きだった。…もう戻ることはないけれど。
23時を回って店から出て、このまま解散かな、と思ったら、聡くんはまだわたしの手を引っ張った。
「…聡くん?」
『着いてきて』
言われるまま駅を降りて、そのまましばらく歩く。
ようやく聡くんが立ち止まった場所。
目の前には、いつもわたしの部屋から無いことにされているものがそびえて。
「え……」
『火星…には連れてけないけど、たぶん、火星から見たら、きっと東京タワーが1番に目に入るかなって。高いし、それに火星とおんなじ赤い色をしてるから』
あったかく見守られてるみたいで、好きなんだよね。
そうやって、いつものふわりとした顔で微笑んだ聡くんに、思わず膝の力が抜けてしゃがみ込んだ。
そのままぐすぐすと泣き出したわたしに、おろおろと聡くんは一緒にしゃがんで肩をさすってくれて。
その手にも、余計に泣いてしまった。
毛嫌いしていた赤い光はずっと優しくわたしを包んで。
君のいる地球に、もう少しだけ生きていたいと思った。
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