番外編 彼女の話
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その日からも、彼女のオレに対する態度は何ら変わることなく、むしろ少し冷たさが増したような気すらする。
せっかく一緒に残業して、ほんの少し打ち解けられた気がしていたのに、無理に踏み込んだりしなきゃよかった、と後悔しているうちに、あっという間に支社での研修も残すところ、あと2日となった。
「寂しくなるなぁ」「いつでも遊びにきてね」と惜しむ言葉ももらえて、嬉しさと寂しさと、だけどやっぱり何より。
「…っ、」
北向きの薄暗い資料室で、いつかと同じくまた触れた指に、彼女は肩を跳ね上げ、勢いよく手を引いた。
長いまつげに縁取られたその瞳には、相変わらず警戒心が宿っている。
『篠田さん、明日の送別会、来てくれないんですか?』
「…ごめん、明日は用事があって」
伏せられた目に、唇を噛んだ。警戒されてもいいから、逸らされるよりこっちを見てくれた方が何倍もマシなのに。じゃないと、彼女が何を考えているのかまるでわからない。
『オレのこと嫌いだからですか?』
「…え」
『だって初めてここで会ったとき、すっごい嫌そうな顔してたから』
この3ヶ月間、彼女の前ではずっと言葉を選ぼうとして、だけど最後に口をついたのは、これ以上なくストレートな言葉だった。
残りわずかな時間への焦りと諦め。
何がどうしてここまで嫌われているのか、オレにはまったく見当がつかなかった。
もうなんでもいい。顔が嫌いとか、生意気そうだからとか、なんでも。
ただこっちを見てくれるなら。
「……明日は本当に予定があるの。有休も取ってて。…ごめんね」
伏せられた目は、そのまま上げられることなく、その場を去った。
1人になって肌寒さが増した資料室の棚に、背中を預ける。
賭けは失敗。最後まで壁は壊せないまま。
やっぱりヤケクソとか柄じゃないよなあ、と苦笑しながら、あのときとは違う、わざと重ねた指を、ひらひらと振った。
送別会は、つつがなく始まり、つつがなく終わった。3ヶ月間の感謝の言葉を述べ、ほどほどにお酒を飲み、楽しく会話して。「元気でな!」「早く出世しろよ!」と温かい激励の言葉を背に、帰路につく。結局、どこかで期待してしまっていた姿は、最後まで現れることはなかった。
アルコールで眠い目をこすりながら、駅の近くのコンビニに入る。ほろ酔い加減で後ろの棚から水を取り、ついでにデザートコーナーにふらりと足が向かう。
送別会の居酒屋はしょっぱい味付けのものが多かったから、何か甘いものが食べたい。
プリン、モンブラン、シュークリーム…。
どれにしようか悩んでいると、横からニュッと伸びた手が、オレが悩んでいたものたちを片っ端からカゴに入れていった。
驚きとともに、ずいぶん気持ちのいい買い方をする人だな、とその手をそっと辿れば。
綺麗に巻かれた黒髪に薄緑色のドレスに紺色のチェスターコート。
そしてさっき脳裏で思い返していたより、少し赤らんでうるんだ瞳と、ぱちんと目が合った。
『前に残業を手伝ってくれたお礼です』
と半ば無理やり彼女のカゴを奪い取り、会計をした。
強く拒絶されたとしても何がなんでもオレが払う、と意気込んでいたけど、酔っているからか、彼女は一度ふにゃりと遠慮の言葉を発しただけで、それ以上拒むことはしなかった。
ついでに2本アルコールをカゴに入れて、『最後、一本だけ付き合ってください』とダメ元で頼んだ時も、わずかに逡巡する間があったけど「……いいよ」と小さく頷いてもらえたから、逆にこっちが驚いてしまった。
コンビニを出て、そのまま近くの公園のベンチに座る。小さく缶を合わせたあと、彼女はグッとそれをあおって、買ったデザートのうちの一つを無造作に取り出し、食べ始めた。
「美味しい」と呟いて、小さく笑った彼女に、最後、こんなに柔らかな表情をする彼女を見られたなら、なんだかもう別にそれでいいや、と思った。
『…あの』
「ん?」
『質問していいですか?』
前回、前々回と失敗を重ねているから、問いかけは自然と慎重になった。
「……デザート、買ってくれた3つぶんね」
ふわ、と風に彼女の前髪が揺れて、プリンのまったりとした匂いが鼻をくすぐる。
『甘いもの好きなんですか?』
尋ねると、彼女は「そんな質問でいいの?」とへらりと笑った。
「うん、好き。意外?」
『少し』
どちらかと言うと、ブラックコーヒーを飲んでいるイメージが強いせいか、苦味のあるものを好むと思っていたから。
「キャラじゃないって分かってるんだけどね、ほんとは好きなんだ」
1個目を食べ終わった彼女は、そのまま2個目を取り出し、蓋を開ける。
「2つ目の質問は?」
『その服、なんでですか?』
彼女は自分の服を見下ろして、「ああ」と頷く。
「友人夫婦の結婚式だったの。大学の頃から知ってる2人で」
ほら、と向けられたスマホの画面の中では、篠田さんと、白いウエディングドレスとタキシードに身を包んだ男女が笑っていた。
『幸せそうですね』
「そうだね。なんだかんだずっと見てきた2人だったから、心から祝福できた。すごくすごく嬉しくて……同時に虚しくなった」
柔らかな口調とは反対の強い言葉尻に、顔を上げると、篠田さんは小さく笑っていた。
「だから、帰り途中で指輪も返してきちゃった」
『返してきたって…あの婚約指輪ですか?』
首を縦に振った彼女は、モンブランのタルト部分を大きな口で頬張り、飲み込んだ。
「で、最後の質問は?」
さっきの婚約指輪についてもっと聞きたい気持ちはあったけれど、最後の質問は初めから決めていた。
『…なんでオレのこと嫌いなんですか?』
彼女はゆっくりと目を瞬かせたあと、「嫌い、っていうか…」と呟き、唇をきゅっと噛んだ。
やっぱりこの質問は鬼門だったらしい。
『あの、答えたくなかったら別に…』
「いいよ」
彼女はそれだけ言うと、おもむろにシュークリームを口に詰め込んだかと思えば、それを残っていたアルコールで一気に流し込んだ。
『ちょ、そんな一気に飲んだら』
「嫌いっていうか、苦手なの」
オレの制止を振り切って缶を飲み干した彼女の頬は赤くなって、目も潤んでいる…というより据わっていた。
「さいしょからわかってたんだから」
と、さっきよりも明らかに呂律の回っていない口調で彼女は堰を切ったように話しだす。
「さいしょから嫌な予感はしてたの。だからあんまり関わらないようにしようって思ってたのに、なのにあのとき、資料室で、まただって思っちゃったんだもん。あんなの、おもいだすなっていう方が無理でしょう?わたしわるくないもん」
怒ったようにまくしたてた彼女は、横に置いてあったオレの分の缶チューハイまでごくごくと飲み干す。
「もう失敗したくないの。嫌な思いもしたくないし苦しい恋愛もしたくない。条件で選んで何が悪いの?甘やかされたいって思って何が悪いの?」
空になった缶は、ことりと音を立てて置かれた。
しばらくの沈黙の後、でも、と彼女の小さい声が聞こえた。
「……でも、それなのに虚しくなる。好きな人に好かれたいだなんて、こんなの結局、わたしが一番恋愛に夢見てて恥ずかしい……」
くたりと脱力したように彼女は頭を落とす。綺麗な黒髪が、はらりと薄緑のドレスの上に広がる。
『篠田、さん』
すん、と鼻をすする音が聞こえて、もしかして、と肩に手をかけようとしたとき。
「…き、気持ち悪い……」
『え』
「やば、吐く……」
『ちょ、待って待って!水道あるからそこまで耐えて!』
口に手を当てる彼女を引っ張って、なんとか公園の水道のところまで連れて行く。
ゴホゴホと胃の中のものを吐き出す彼女の背中をさすっていると、しばらくして吐き気はおさまったらしい。「うぅ…」と呻きながら口の中を水道水でゆすぐ彼女に、さっき自分用に買った水を差し出した。
『ったく、どんだけ飲んできたんですか』
「……そういえば、ボトル2つくらい無くなってたかも…」
『そりゃ吐きますって…』
その姿は社内での毅然とした彼女とは結びつかなくて、だけどそういえば、オレの前での彼女はいつもみんなの言う “篠田さん” とは違った姿ばかりだったな、と小さく笑った。
今だって、いつもはどれだけ立場が上の人に対しても不敵に笑う顔を、こんなところ見られて恥ずかしい…と赤くしている。
パタパタと手で顔を扇ぐ彼女に、ハンカチを手渡した。
『はい。口元、これで拭いてください』
「…ん、ありがとう」
『2本は飲み過ぎです。もう、きちんと自制してくださいよ』
「うん」
『あと、さっきの質問の答え、いまいち意味不明だったんですけど、とりあえずオレたち付き合います?』
「う……ん?!」
頷きそうになった彼女の首は、途中で流れに逆らってグンと上がる。
「…っは?え?!」
『だって、そういうことですよね?』
「どういうこと?!」
目まぐるしく変わる彼女の表情に笑いを堪えながら、大きく開いた彼女の瞳をのぞきこむ。
『さっきの、誰のこと思い出して言ってたのかは知りませんけど、“まただ”って、“もう恋愛で失敗したくない”、“好きな人に好かれたい”って、つまり、オレのこと恋愛対象として見てたってことでしょ?』
「…………え」
さっきと比にならないくらい、みるみる顔を赤くする彼女に、『言ってて自覚なかったんですか』と笑えば、あうあうと口を動かし。
しばらく口ごもったあと、「だって…!」と眉を寄せて、真っ赤な顔で口を曲げる。
「そ、そんなの無理!いきなりすぎだし、それにもう懲りたの!一目惚れとかそういうの!だってそうやって付き合っても絶対そのうち仲良い女友達のほうを優先しだすし、そんなの絶対、」
『はい』
「え?」
『連絡先、全部消しました』
「は?」
『これなら安心ですか?』
スマホに表示された“0件”の画面を見せれば、彼女は画面とオレの顔を何度も交互に見直して、またぱくぱくと口を開け閉めする。
『はぁ、今度はなんですか』
「お、…おも!重い重い重い!」
ふるふると首を振り続ける彼女に、『あのさぁ』と思わずため息をつく。
手を伸ばし、赤らんだ顔に張りついた髪の毛を取ってサッとよけると、彼女はそのまま身体を固まらせ、ぴたりと大人しくなった。
『重くない恋愛なんて意味なくない?』
首を傾げて、ちがう?と問いかければ、彼女は濃くなった頬の色を隠すように下を向いた。
「タ、タメ口…」
『ああ、すいません。あんまり篠田さんがバカなことばっか言うんで、つい』
「バ、バカって…!」
口を尖らせた彼女は、だけどそれ以上何か言い返してくることはなく、代わりに大きな瞳を揺らしながら、不安と躊躇いの入り混じった表情でこちらを見る。
すうっと夜風が2人の間をすり抜けた。
3ヶ月間、ずっと合うことのなかった目が、今は瞳いっぱいにオレだけを映してる。
「……なんでわたしなの」
『強いのに、弱いから。見ててたまんなくなる』
「……そんなか弱い女に見えた?」
『あー…ううん、ごめん。そうじゃなくて。……普段とは違うそういう顔、見たら誰でも好きになると思う………から、知ってるのがオレだけのうちにオレのものにしたくて、これでも焦ってるんです』
「……っ」
『ねえ篠田さん。オレ、末っ子だから意外とわがままなんです。9頭身にはちょっと足りないし、年収1000万はもう十数年待ってもらわなきゃだけど』
静かに息を吐いて、彼女の手をとる。
『でも十数年も待てないし、オレは今すぐにあなたが欲しい』
絡めた指は、もうあのときみたいに振り払われることはなかった。
震える指先は、最初はためらいがちに握り返され、次第にその力は強くなり、ぎゅうぎゅうと握りしめられる。
『……痛いんですけど』
「……っわ、わたし結構めんどくさいよ?」
『知ってます』
「女友達とかにもすぐ嫉妬するし」
『じゃあそのたびに連絡先消します』
「熱出したときに他の用事優先されたらガチギレするよ」
『もしそんな酷いことオレがしたら、この先の全収入を篠田さんに渡しますって念書でも書きますよ』
「あと、あとは………、っ!、」
ちゅ、と落とした唇に彼女は目を見開き、身を固まらせる。
それが可愛くて、思わずもう一度、今度はもっと長く塞ぐと、おずおずとコートの端を小さくつかむ感触がして、もっと離したくなくなった。
名残惜しさを感じながらそっと目を開けると、彼女は困ったように眉を下げていた。
『…あとは?サエさん』
「………あと、今はもうキャパオーバーだから、しばらくはまだ苗字で呼んで……」
赤い頬のまま俯いた顔。ゆっくりと長いまつ毛が持ち上がって。
────その目は初めて、オレを映して綻んだ。