番外編 彼女の話
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そんな彼女と初めてきちんと話したのは、支社に来て1ヶ月を過ぎた頃だった。
「お先に失礼しまーす」
『おつかれさまです』
だんだんと人のいなくなっていくフロアに、ふと見上げれば、時計は22時を過ぎていた。
見栄を張って引き受けた仕事に案外手こずってしまい、その他の仕事が押した結果のこれだ。
社会人3年目でいくら慣れてきたからといって、まだ自分の力量を見極めきれなくて、カッコつかないよなぁ、と情けなくなる。
あと30分で終わらす……のはどう考えても無理だ。
少なくても1時間、下手したら2時間かかりそうな。
「……まだ残るの?」
ぽつりと落とされた声に顔を上げると、いつもすぐ逸らされる目が、今日は気まずげに、だけどまっすぐ、こちらを見ていた。
『あー…もうちょっとやってから帰ります』
「……そう」
彼女は何か言いたげに口ごもり、結局そのまま「…おつかれさま」と、バッグを肩に掛け直して出て行った。
いよいよ1人になったフロアで、パソコンと向き合って手を動かす。
だけど、そう経たないうちに目に限界が来て、集中力もガクンと下がる。
いったん手を止めて背伸びをし、気分転換にコーヒーでも買おうかと席を立とうとしたとき。
「…はい」
今まさに買いに行こうとしたものが、目の前に差し出されていた。
『…あれ、帰ったんじゃ』
驚きのあまり、コーヒーを受け取ることもお礼を言うことも忘れて、ただぽかんと彼女を見つめると、彼女はぐいぐいとオレの胸にコーヒーを押し付けた。
「残ってる仕事、手伝うから。何すればいい?」
『は、いや、大丈夫で』
「わたしが大丈夫じゃないの!」
オレの言葉を遮って、苛立ったように自分のデスクにバッグを置いてベージュのコートを脱ぐ。
「佐藤くん、昼間、課長がわたしに振る予定だった仕事を引き受けてたでしょ」
『…あー』
バレてたのか。
決まり悪くて、今度はオレが目を逸らす。
これじゃ、ますますカッコがつかない。
『別に、打ち合わせ続きの篠田さんがやるより、今日特に予定がなかったオレがやればいいと思っただけで』
弁明するように返事をすれば、彼女は小さく唇を噛んだ。
「…それはありがとう。わたし今日余裕なかったから。別日で1日かけてやろうと思ってたのに、それをさらっと数時間で終わらせられてたのは正直悔しかったけど…」
とにかく!と彼女はキッと顔を上げてこちらを向く。
「わたしのせいで仕事押してるんでしょ!わたしそういうの嫌なの!むずむずして耐えられないの!だからホラ、早く仕事よこして!」
迫る彼女の圧に押されて、『えっと、じゃあこっちの資料整理と打ち込みを…』と言えば、彼女は「了解」と頷き、オレのデスクにある紙束をごっそりと抱えて自分のデスクに持っていく。
無造作にまとめた髪と、横顔からのぞく長いまつげ。
あの日以来、初めて合った目は、やっぱり笑みなんて向けてくれなかったけれど。
それでも、迷いに迷った末、戻ってきてくれたんだろう。
嫌々ながらも自分のプライドが許さなくて、あの怒ったような顔でコーヒーを買いズンズン来た道を引き返す彼女を思い浮かべると、自然と口元が緩んでしまう。
キーボードと紙の音だけが響くフロアの中、笑い声が混じらないようにするのにしばらく苦労した。
残業は、彼女が手伝ってくれたおかげで、日付を跨ぐにはまだ余裕がある時間に終えることができた。
「っはぁ~~!終わった!」
満面の笑みで大きく伸びをする彼女に向かって、頭を下げる。
『ありがとうございました。さっきお礼言えてなかったんですけど、コーヒーも』
「……別にそれくらい」
せっかく彼女が珍しくオレの前で笑っていたのに、すぐにいつもの固い表情に戻って目を逸らされたのがなんだかもったいなくて、オレより低いところにあるその顔をもう一度のぞきこんだ。
『コーヒーも、戻ってきてくれたのも、すごく嬉しかったです』
見開かれた目は、1秒後にはやっぱりパッと逸らされてしまって。
「……帰るね!」
雑に掴まれたバッグは、デスクの角にぶつかって、派手に中身が飛び散った。
「…あ……」
彼女は一瞬固まったあと、慌てて床にしゃがんで荷物を拾い集める。
こんなに焦った彼女も普段の社内ではあまり見ないな、と小さく笑いながら飛んできたものを拾おうとしゃがむと、真っ先に目に入ったのは、机の近くに落ちていた開いた薄ピンク色の小さい箱。もしかして、と思い、机の下を覗くと、案の定、鈍く光るゴールドの指輪が落ちていた。
『篠田さん、これ』
彼女はオレが差し出したものに「あ」と小さく声を漏らすと、そそくさと受け取り、指輪を箱にしまいこんでバッグに入れる。
『…婚約指輪ですか?』
リングの内側に刻まれた2人分のイニシャルが見えてそう尋ねれば、彼女はわずかに動きを止めた後、「…そう」と短く答えた。
『ほんとにいたんですね』
「は?」
『9頭身の年収1000万。前に、篠田さんがそう言ってたので』
「…よく覚えてるね」
ふい、と顔を背けられたのは、たぶんこれ以上は聞いてくるなという意思表示だ。それを分かっていながら、どうしても踏み込みたくなってしまった。
9頭身の年収1000万。彼女の理想通り。それなのに。
『…指輪つけないんですか?』
どうして、そんなふうに翳った顔をするのか。
「……つけていろいろ囃し立てられるのも面倒だから」
『でも』
「佐藤くん」
続けようとした言葉はぴしゃりと遮られた。
「帰ろう。終電なくなるよ」
立ち上がった彼女の背中は、もうはっきりとオレを拒絶していた。