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旧校舎の入り口に立ち、ドアに手をかけると、鍵がかかっているはずのそこは、錆でガタついて何度か引っかかりはしたけど、普通に開いてしまった。
……マジで行かなきゃなんねーじゃん。
小さくため息をついて一歩踏み出し中に入ると、ジメリとした空気が体を包む。
ホコリっぽくはあるけど、幽霊が出る、なんて言われていたわりに、思ったよりも校舎の中は整然としていた。
鍵が開いていたということは、あの子がこの校舎内にいるのは確実らしいけど、広くはないとはいえ校舎は3階まである。
お姫さまはいったいどこにいらっしゃるのやら。
“告白に肝試しって、ほんと「夏!」って感じでいーね”
樹はピンク頭を揺らして笑っていた。
いつもよりも1センチ過ぎた悪ノリ。
普段なら肝試しはともかく、告白なんて他人を巻き込んだおふざけはやめようと止めていただろうし、そもそも樹も提案しなかっただろう。
だけど、夏なようで夏じゃない、まだ微妙なジメジメとした灰色の空の下で、たぶんオレらは起爆剤を探していた。
湿気と共にまとわりつく退屈さを吹き飛ばしてしまえるような、爆発的な何かを。
その結果やることがこれっていうのも、オレらの想像力の乏しさと気の小ささを表しているけれど。
ひとつひとつ覗いていく教室には、なにか掲示されていたのだろう壁の日焼けの痕とか、黒板の隅に残った消し忘れられたチョークの線とか、確かに数年前までここで繰り広げられていた風景が残っている。
かつてここにいた生徒たちは、今どこで何をしているんだろう。
80まで生きるとして、そのうちのたった3年。
人生のうち5%にも満たない時間。
いろんな人が、その5%をいっとう“特別”だと言う。
きっとこの先、オレもネクタイを緩めて酒を飲み、笑ったり感傷に浸ったりしながら、少し美化された3年間を思い出すこともあるんだろう。
だけど、今。
まさにその3年間の中に今いるわけだけど、世間の人たちが言うほど煌めいた時間を自分が送っている実感はないし、このままでいいのか、いつも何かに急かされている気がする。
静かな校舎に、スニーカーの音がキュッキュッと響く。
これが最後の教室。
祈るように覗いたそこには、必死の願いも叶わず、誰の気配もなかった。
いや、ムリムリムリムリ。
階段は一つしかないし、外に出るならどっかですれ違うはずだ。水道も通っていないから女子トイレにこもってる可能性もまずないだろう。
旧校舎で女子高生が消えた、なんて、そんなベタな怪談みたいなこと。
体感温度が1℃下がった気がして、早足で廊下を戻って階段を降りようとすると、ふわりと何かが頰を撫でる感触がした。
風、だ。
でもどこから。
周りを見渡すと、その風が階段の上から吹いてくることに気づいた。
まさかと思いながら、階段を上り、屋上に続くドアの前に立つ。
そのドアはわずかに開いて、静かに力を込めると、ドアの向こうに人影が見えた。
風に揺れる長い黒髪と紺のスカート。
彼女はこちらに背を向けていて、オレの存在には気づいていないようだった。
優等生って、背中でも優等生ってわかる気がする。
日焼けを知らないようなふくらはぎと腕に、正しさを主張するようなシワのないシャツ。
仲のいい女子たちの中に似てるタイプはあまりいないから、柄にもなく少し緊張して。
いや、だけどこういうのは勢いが大事だ。
かけようとした声は、けれど、あることに気づいて出鼻をくじかれた。
……お? おお?
一瞬見間違いかと思って目までこすったけど、しばらくしたら、また黒髪の向こう側からそれが見えて、確信する。
……やるやん、優等生。
『みーちゃった』
響いたオレの声に、彼女は俊敏な動きでこちらを振り返り、肩を強張らせた。
「……菊池、先輩」
『あっ、オレのこと知ってくれてんの?うれしー』
「……目立つので」
時々岸をクラスまで迎えに行ってたし、何よりあのピンク頭と一緒にいればそりゃ目立つか、と納得する。
警戒心をめいっぱい宿した目は、文化祭のステージで見たときよりも、ずっと人間ぽく見えた。
『美人で成績優秀で誰にでも優しいって岸からは聞いてたけど、それだけじゃないみたい、ね?』
ね、に合わせて彼女の顔からその手に視線を落とす。
細い指の間に挟まれたタバコ。
そこから落ちた灰は、風に吹かれて白く舞った。
「……何が望みですか」
強張った声に苦笑する。
『最初から条件突きつける奴だって思われてんのがまぁちょっと癪ではあるけど、実際そうだし、話早いコは嫌いじゃないよ』
一歩踏み出せば、じめじめした空気が動いて、彼女との間の空気を揺らす。
近づいてみると、彼女の口元にホクロがあることに気づく。
それぞれのパーツがバランス良く配置された顔の中で、そのホクロは肌の白さと相まってアンバランスで、それが妙に彼女から醸しだされる不可侵性を際立たせているような気がした。
普段なら関わり合いのないようなタイプの子だけど。
振られてきてよ、と言った樹に、心の中でバーカ、と呟く。
図らずも、こっちは強いカードを手に入れた。
「タバコ、秘密にしてほしかったらオレと付き合って」
目線を合わせてにっこり笑えば、彼女は小さくため息をついた。
普段から告白される機会が多いだろう彼女にとっては、想定内の言葉だったんだろう。
彼女は唇を噛んで、しばらく眉を寄せたあと、
「……わかりました」
と小さく言った。
「ほんとに黙っててくれるんですよね?」
『もちろん、可愛い彼女の頼みなら』
「……彼女、ね。……じゃあ、目、閉じてください」
突然の言葉に不意を突かれて『は?』と聞き返すと、彼女は俯いて、その長い髪を耳にかけた。
「彼女らしいことするんで、目、……閉じてください」
心の中で、小さく唇を鳴らす。
どうやら、美人で成績優秀で誰にでも優しい優等生は、やっぱり「それだけ」じゃなかったらしい。
彼女の長い睫毛が揺れて、少しの期待を胸に、言われたまま、目を閉じた。
暗くなった視界。
おずおずとためらうように肩に置かれた手に、少しだけ体重がかかって。だんだんと温度が近くなって、息遣いが聞こえて、そっと唇に触れて、ねじ込まれ……
………ん?ねじ込まれ??
目を開けた瞬間、カシャリ、とシャッター音が響いた。
目の前にはスマホを持った彼女が、そしてオレの口元には、短くなったタバコが差し込まれていて。
状況を把握しきれず呆然として半開きになった口から、タバコがポロリと地面に落ちた。
ローファーの底で落ちた火をグリグリと消した彼女は、オレの前にスマホの画面をかざした。
そこには、タバコをくわえたオレがはっきりと写っていて。
ようやく、自分の置かれた状況を理解した。
「付き合うの、取り消しでお願いしますね」
黒髪が揺れ、先ほどまで恥ずかしそうに噛まれていた唇は、不敵な弧を描いていた。
やられた。
正しさを主張する真っ白なシャツの上で、リボンが揺れる。
鼻をかすめたタバコの、ぬるいのに、ミントのようなどこかスンとした匂い。
細められた目は、色素が薄くて、茶色を通り越して黄みがかって見えて、まるで向日葵みたいだ、と思った。
美人。
成績優秀。
優しい。
白い肌。
なびく黒髪。
くゆる紫煙。
細い指に挟まれたタバコ。
躊躇いなく火を消した靴底。
恐れ知らずの笑み。
“それだけ”じゃない女の子。
「……気持ち悪いんですけど」
言われて初めて、自分の口元が緩んでいることに気づいた。
風が吹き、舞い上がった彼女の黒髪の先をたどると、灰色の空の隙間から、青が差し込んでいて。
そういえば、あの物語の中でも、三つ編みでおしとやか然としたお姫さまの登場シーンは、空から降ってくるなんてパンチの効いたものだったっけ。
目の前で、彼女は当惑したような、引いたような顔でこちらを見ている。
起爆剤を待っていた。
こんなジメジメして、楽しいけど退屈な、今を吹き飛ばしてくれる何かを。
彼女の後ろで、重苦しい空から、鮮烈な青が現れた。
夏が、降ってきた。