番外編 キューピッドの矢が刺されば
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「あのときはごめんなさい」
頭を下げれば、深野さんは慌てたように三つ編みを揺らした。
聡ちゃんに無理やりキスしたあのディズニーから3ヶ月。
3ヶ月かけてようやく謝ろうという気持ちになったのは、聡ちゃんに対してもう何の未練もないということと、なんだかんだ心のどこかでずっと引っかかっていたということと。
だけど何よりの理由は、もしわたしが「彼」の、あの少し意地悪そうに持ち上がる唇を他の女に無理やり奪われたら、わたしはその女の家に火をつけてしまいかねないと思ったからだ。
このあいだ、それを冗談ぽく本人に言ったら、真顔で『オレは彼女が放火犯になるのは嫌だよ』と諭された。
正直、深野さんには苦手意識しかないし、謝ったからといって今更どうなるものでもないけど、だからといって謝らなくていい理由にはならない。
「長瀬さん、おねがい、顔上げて」
言われたとおりにすると、彼女は困ったように眉を下げていた。
その目には、わたしを責める色は一つもなく、ただ純粋に戸惑いと困惑の色が浮かんでいる。
……だからわたし、この人のこと苦手なんだよな。
小さく唇を噛む。
さすがに火をつけろとは言わないけど、「あれはわたしのものだ」って、もっと怒って、声を荒げて責めればいいのに。
彼女の思考はあまりにわたしとかけ離れていて、本心がどこにあるか掴めないし、何よりその余裕に、こちらばかりが必死で惨めな気持ちになる。
「あのときも今も、わたし怒ってないよ。人を好きになる気持ちって止められないし、わたしに止める権利もないし」
謝っておきながら、苛立ちが募る。
ぽつりぽつりと言葉を選びながら話す彼女に、ため息が出そうになるのを髪をかきあげることで何とか押し込めた。
「こんなわたしを聡くんが好きになってくれただけで奇跡だもの。もし聡くんが違う人のところに行っちゃったとしても、わたしは、1から聡くんに振り向いてもらえるように頑張るだけだよ」
だから、それって結局こっちを見下してるってことじゃない。
本当にイライラする。
「あのさぁ」
思わず口からこぼれた苛立ちは、彼女の言葉に遮られた。
「っていうのは建前で」
「……ん?」
「っていうのは、建前、で…」
彼女はもじもじと服の端を引っ張りながら、恥ずかしそうに俯いた。
建前??
止められた苛立ちは全て脳内でクエスチョンマークに変わる。
そのまま、そわそわと目線を忙しなく動かしたあと、意を決したようにギュッと目を瞑り、彼女は秘密を吐露するように、そうっと唇を動かした。
「あの、わたしね、実は、重度の面食いで」
「面、食い?」
想定外の言葉に、意味を理解しないまま彼女の言葉を繰り返す。
彼女はわたしの声に勇気を得たかのように、堰を切ったように話し始めた。
「こんな地味な人間が面食いって本当に申し訳なく思っているんだけど、小さい頃からどうしても抗えなくて…!気づけば男女関係なく好きな顔を目で追ってしまいがちというか、趣味も実はアイドルの応援だったりして」
つまり何が言いたいかっていうと!と彼女はグッと語気を強めた。
「わたし、長瀬さんの顔、すごく好きなの。大好きなの」
「…え?」
「入学したときから、こんな綺麗な顔の子がいるんだってドキドキしてた。わたしが今まで見てきたどんなモデルさんよりも、女優さんよりも、顔がタイプで」
語気に合わせて身体を乗り出してくる彼女に、目を白黒させてしまう。
この人、本当に深野さん?
彼女は我に返ったようにハッとして、恥ずかしそうに目を泳がせたあと、こちらをそっと窺って、シュンとしたように服の裾を握りしめた。
「…わたし、見てたよ。長瀬さんが聡くんにキスするとこ。…本当は怒るべきなんだと思うの。こんなのは失礼だってわかってる。でも、あろうことか、わたし見惚れてしまって…」
彼女は自らを恥じるように額に手を当てた。
「長瀬さんがあまりにも綺麗で、まるで映画のワンシーンを観てるような気持ちになってしまって……こんなこと聡くんに正直に言えるはずなくて、聡くんはすごく謝ってくれたけど、ますます申し訳なさが募って。だから、後ろめたいのはわたしも同じなの。本当に長瀬さんに謝られる資格なんてないの」
耳から流れ込む彼女の言葉を理解するために、脳内で何度も反芻する。
つまり、わたしの容姿が好きすぎて、自分の恋人とキスしてるところを見ても怒りも湧かなかったってこと?そんなことある?
今まで同性から投げかけられる称賛の言葉は、どれも少しの嫉妬と悔しさと羨望が入り混じったものだった。
それらに悪い気はしなかったしむしろ優越感すら抱いていたけど、逆にこんなにも純度100%で「綺麗」とか「大好き」なんて言われたことはない。
信じられないような気持ちで彼女の方を見れば、彼女はいたたまれなそうな表情で、その白い肌を首まで真っ赤に染めていて、怒られた子犬のように、服の裾を掴む手はふるふるとわずかに震えていて。
あ、落ちた。
陥落したのは、わたしの方だった。
やばい、何この子、めっちゃ可愛い。
「ねえ、スマホ貸して」
おずおずと手渡された彼女のスマホに、わたしのLINEと番号とメールアドレスを秒速で入れて連絡先フォルダにわたしの欄を作る。
「今週の日曜日空いてる?空いてなくてもわたしのために空けて」
「え?!」
「お買い物行こう」
「ええ?!」
「ね?いいでしょ??」
ギュッと彼女の両手を握って顔を近づければ、彼女は眩しいものを見るようにわずかに顔を背けながら、小さくコクコクとうなずいた。
『それ、結局力づくじゃん』
帰り道、謝罪の顛末を嬉々として話せば、彼はあきれたようにため息をついた。
「ねえ!女の子にこんな気持ちになるの初めてなんだけど!どうしよう佐藤くん!わたしあの子のことすごい誤解してた!!」
彼の言葉を無視して興奮しながら話すわたしに、『よかったねー』と見事な棒読みで彼は相槌を打つ。
「スコンて!スコンて落ちちゃった!顔を真っ赤にしてて可愛くてね!ていうか聡ちゃんといい深野さんといい、あのカップル、わたしを落とす天才なのかもしれない!」
ねえ、ていうか深野さんのこと呼び捨てで呼びたいんだけどまだ早いかな?!いきなり呼んだら引かれちゃうかな!?どう思う!?と彼の腕をぶんぶんと揺さぶれば、うざったそうに腕をほどかれた。
『したいようにすればいいじゃん』
スンと前を見続ける彼は無表情で、だけど口元がわずかに尖っていることに気がつく。
「…なんか怒ってる?」
『別に』
「嘘、怒ってるよ」
『それよりさ』
わたしの言葉に返事することなく、彼はわたしのほうをちらりと見た。
『オレは?』
「え?」
『オレのことは、いつ呼び捨てにしてくれんの?』
「え、それ気にしてたの?」
思わず横を向けば、彼はまたいつもの無表情の仮面を被っていて、それでも付き合いの中で、それが若干の傷つきを隠すためのものだとわかる。
『まあ、あんたがオレへの気持ちに気づくまで何ヶ月もかかったし、名前くらい、別にどれだけでも待てるけど』
どうやらさっきの聡ちゃんカップルへの「落とす天才」発言を根に持ってるらしい。
意外と彼が繊細な人だということも、出会ってからこの数ヶ月で学んだことの一つだ。
そっと隣を歩く綺麗な横顔を見上げる。
今だって通り過ぎた人が振り返ったほどの、まるで作りものみたいな美しく端正な顔で、だけどその実、中身はものすごく人間の男の子だ。
そして、その不服そうに尖った唇の理由が、紛れもないわたしだということに、わたしがどれだけ嬉しくていまだに舞い上がってしまうのか、彼は知らないんだ。
「拗ねてる?」
『拗ねてない』
「怒ってる?」
『怒ってない』
「傷ついた?」
『…すこしだけ』
「嫉妬した?」
『……だいぶ』
「ごめんね。………勝利が好きだよ」
そっと呟くように発した声は、自分で思うより「女の子」の声で、恥ずかしくなった。
彼の小指を捕まえて、ぎゅうと握る。
人前で手を繋ぐのは恥ずかしい、というのが2人の意見の一致で、だけど、今だけはせめてこの小指から、わたしの気持ちの10分の1でも彼に伝わればいいと思った。伝わってほしかった。
ねえ、あなたが思ってるより、たぶんわたしはあなたのことがもっとずっと好きです。
『……悪くない響きだね』
勝利って、やっぱりいい名前。
ポツリと独り言のように落とされた言葉と同時に、小指を離したわたしの右手は、彼の左手に捕まって絡めとられた。
一瞬、キュッと力を込められて、その手はすぐに離れてしまったけど。
横を歩く赤く染まった顔に、心の中で小さく、もう一度恋の言葉を呟いた。