番外編 マーメイドの指先
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美術の授業を終えて教室を出ようとしたとき、先生に呼び止められた。
「松島くん、深野さん今日休みでしょ。部活のスケジュール表届けてくれない?」
『えー…なんでオレ…? 美術部の人に頼めばいいじゃん…』
彼女とはもう何日もろくに話していない。
正直気まずくて、渋い顔をするオレに、先生は「まあまあ」とプリントを押しつけた。
「深野さん、言ってたわよ。最近友だちから避けられてて悩んでるって」
『…だから嫌なんだもん』
「え?」
『……友だちじゃ嫌なんだもん』
「…そういうのは本人に言いなさい」
口を尖らせたオレを、先生は小さく笑い、パンッと背中を軽く叩いた。
先生に教えられた住所をマップに打ち込んで辿り着いた先は、豪勢な門構えの一軒家だった。
広い庭に、立派な三階建。
え、ほんとに? ほんとにここが深野さんの家?
建物の圧に圧迫されて、インターホンを押すのもおそるおそるになる。
〈どちら様でしょうか?〉
『あ、深野さんと同じクラスの松島です』
〈あら、ちょっとお待ちくださいね〉
ドアが開き、彼女のお母さんらしき人に出迎えられる。
「わざわざありがとう」
にこりと笑った頬にできたえくぼは彼女と一緒で、やっぱり親子って似るんだなあと感心しているうちに、彼女の部屋に案内された。
「ゆっくりしていってね」と言い残してお母さんが立ち去り、少し呼吸を整えてから、コンコンと小さくノックして、ドアの隙間から顔を覗かせる。
『…こんにちは』
「…こんにちは」
いつもの三つ編みをほどいて、ベッドに横たわっている深野さんと目があった。
彼女の寝ているベッドまで近づき、そばの椅子に腰を下ろすと、彼女は恥ずかしそうに布団を顔まで引き上げた。
『…風邪、大丈夫?』
「うん…もう熱はだいぶ下がった…」
『今回は狙って引いたわけじゃなくて?』
「ちがうよ…」
ふふっと目を合わせて笑う。
こうして話すのも、笑い合うのも、何日ぶりだろう。
そのことにどこかホッとすると同時に、風邪のせいか、彼女の瞳は少し潤んでいるようで、そんな瞳でじっとこちらを見るものだから慌てて目を逸らした。
『これ!先生から頼まれた美術部のスケジュール表』
小さく揺れる瞳に飲み込まれないように、カバンから取り出したプリントをぎゅうと彼女に押しつける。
眼鏡越し、茶色がかった目の中に、オレが映る。
「わざわざ届けてくれたの?ありがとう」
『べつに、これくらい』
彼女の視線はそれでも離れることなく、ゆらゆら、ゆらゆらと。
「……あのね、ほんとは、もう話さなくなるんじゃないかって思ってたの」
布団の隙間から、ポツリと声が聞こえた。
目線を上げた先で、彼女の瞳に捕まる。その目は、逸らすことをもう許してくれなくて。
「………やっぱり松島くんはやさしいね」
熱のせいか火照ったような頰は、あの日、窓の外を見つめていた君に重なった。
じっとあの彼の方を見つめていた、君に。
『オレ、やさしくないけど』
「…え?」
布団の端で揃えられた指先を手に取る。
その爪はやっぱり桜色の貝殻みたいだ。
『深野さんの意外なとこ、オレだけが知ってたくて、他の人には知られたくなくて、だから教室では話しかけないようにしてたし、深野さんが描いた絵も、あれだけ好きって言ったくせして、それが全部、深野さんの好きな人が食べてたものを描いてたんだって気づいてからは目に入るたび破きたくなった』
言葉は止まらない。
『今日だってそうだよ。ほんとは来たくなかった。嫌だもん。なんでオレじゃないのって、顔を合わせたらどうしても思っちゃうもん』
彼女の指先を隠すように握る。
それでも真っ直ぐに離してくれない目線を諦めて、小さく笑った。
『ねえ、オレ全然やさしくないよ』
握っていた手のひらをほどいて、その中にある彼女の爪の輪郭をそっとなぞる。
この綺麗な指先がオレだけのものになればいいのに。
なんて、失恋が分かってなお、そんなことを思ってしまう自分の未練がましさにあきれてしまう。
だからといって、この気持ちをどうやったらなかったことにできるのかも分からないけれど。
『じゃあ、早く風邪治してね』
彼女の手を離して、重ねていた手のひらを引き抜いたとき、華奢な指がオレの服の袖を掴んだ。
「ずるいよ」
切羽詰まったような声に顔をあげれば、熱のせいで火照っていた頰はさらに赤くなって、眉根を寄せた目は、眼鏡越しでもわかるくらい、その水分量をさらに増していて。
長い髪の毛が首の動きに合わせてさらさら動く。
「そ、そんなのずるいよ。無意識だとしてもやっぱりずるい」
ずるいずるい、と彼女は怒ったように繰り返した。
「そんなこと言われたら嫌でも勘違いしちゃうよ。クラスの向こう側にいた太陽みたいな人が、ポンとこっち側に来ちゃうんだもん。さっと手を取って連れ出してくれちゃうんだもん。き、気まぐれだって、なにかのバグみたいなものだって、そう思おうとしたけど無理だったもん」
声をつまらせながら、ますます顔を真っ赤にする。
いつもどこかふわりとした喋り方をする彼女が、こんなふうに話す姿は初めて見た。
「は、話さなくなって、たぶん避けられてるって悲しくなって、だけどこれは元に戻っただけだって、普通の生活に戻っただけだって自分に言い聞かせたけどとっくに手遅れだった!だって好きにならない方法なんてわかんなかった!」
オレの袖を強く掴んでいた力が、ゆっくり抜ける。
震える唇で、「松島くんはやさしくて、勝手で、ずるい」と彼女は小さく呟いた。
…それって、どういうこと?
彼女の声がゆっくり脳に入ってきて。
え、だって、え、それって。
『まって、深野さんは、だって、あの絵たちは』
「…絵?」
動揺するオレに、彼女は怪訝そうに首を傾げる。
『あの絵たちは、深野さんの好きな人が食べてたものを描いたものなんじゃないの?だから、オレがテーマを聞いたときもあんなに恥ずかしがって』
彼女は慌てたように首をブンブン振った。
「ち、ちがうよ!あの絵は、ちがくて、その……」
しばらく、うぅ…と言い淀んだあと、彼女は、笑わないでね?とささやくような声で釘を刺した。
「…あの絵はね、“食べてみたいもの”がテーマなの」
『へ?』
だって、あそこに描かれていたのはカップラーメンやフライドチキンやポテトチップスなんかで……
「…う、うち、“身体によくないから”って、あんまりジャンキーなもの食べさせてくれなくて……だけど、この歳になってカップラーメンとか食べたことないって言うのも恥ずかしいし、嫌味に聞こえるんじゃないかって、あんまり人にも言えなくて…」
『…っな、なんだそれ〜〜〜』
もじもじと顔を赤らめる彼女の肩の上に、へなへなと脱力して倒れ込む。
でも、そうだ。こんな大きな家に住んでるお嬢さまだった。食生活が整いすぎるほど整っていても不思議じゃない。
それと同時に、自分の勘違いの恥ずかしさに、顔があげられなくなる。
「ま、松島くん…」
しばらく彼女の肩に顔をうずめたままのオレに、首元から困ったような声が聞こえて。
「あ、あまりにも心臓に悪いので、そろそろ顔を離してもらえると…」
『ね、じゃあつまりさ、深野さんはオレのことどう思ってるの?』
「へえ?!」
こてんと頭を彼女の肩に預けたまま横を向くと、彼女は目を丸くして。
「だって、さっき言ったよ…!」
『オレ頭悪いからわかんなかった』
わざとらしく小首を傾げてみせれば、彼女は今度こそ首元まで真っ赤にして、何度か空気を食べるようにパクパクと口を動かす。
ねーえ、とダメ押しの催促をしたら、
「…松島くんのことが、すきです…」
と眉をふにゃりと下げて恥ずかしそうな、消え入りそうな声で言うものだから、可愛すぎてそのまま腕を回してぎゅっと抱きついた。
『ねえ、風邪治ったらさ、深野さんの食べたいもの食べに行こ』
「え?」
『今、何が一番食べたいの?』
「えーと……タピオカ、飲んでみたい」
『じゃあ初デートはタピオカ屋さんね!』
「デ、デート?!」
『ちがうの?』
「……っ、じゃあ、そういうことで、よろしくおねがい、します……」
『よろしくおねがいされました!』
嬉しくてぎゅーっと腕に力を込めれば、おずおずと彼女の腕が背中に回ってくる。
「…なんか松島くん、こんないじわるだったっけ」
『えー、さっきは優しいって言ってくれたのに』
「……やさしくて、いじわる」
彼女は真っ赤な顔で口を尖らせる。
そうだよ。
オレは結構わがままだし、ちっちゃいことでイラッとしちゃうし、諦めも悪いし、あと、独占欲も強いっぽい。
なんでか、君の前ではそうなっちゃうみたいだ。
だから、君のそのころころ変わる顔も、声も、ぜんぶ。
『オレの前だけで見せてね』
ぱちり、と不思議そうに瞬きした彼女の額に、そっと唇を落とした。