番外編 マーメイドの指先
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その日は案外早くやってきた。
放課後の教室で、先生に頼まれたプリントをクラスメイトの間を巡って集めていたとき、手渡されたプリントの、たまたま透けてみえたその裏面に小さく書いてあったハンバーガーの落書き。
見た瞬間、彼女の絵だとわかった。
バッと顔を上げると、勢いに驚いたのか、プリントの持ち主は眼鏡の奥で目を丸く見開き、胸の上で編み目の揃った三つ編みを揺らして。
まさか同じクラスだったなんて。
だから先生は毎回あんなおかしそうに笑っていたのか。
「えっと…松島くん?」
『美術室!カップラーメンの絵!あれ深野さん?!』
興奮で勢い込んで言えば、彼女の白い頰はじんわり赤くなって。
「な、なんで知ってるの…」
その質問には答えないまま、身を乗り出した。
『今日放課後あいてる?!』
学校近くのマックで、ハンバーガーが載せられたトレイを置き、目の前の席に座った彼女は、少しそわそわした様子で「ここ来るの初めて」と小さな声で言った。
彼女は「いただきます」と手を揃える。
ストローに添えられた爪は、色は乗せられていないのに、全部が綺麗な桜色をしていて、まるで貝殻みたいだと思った。
落ち着いていて、静かで、頭のいい人。
話したこともほとんどない彼女のイメージは、今までそれくらいしかなかったけれど、今日でもうひとつ加わった。
すごく、所作が綺麗な人。
「あれ?」
彼女が怪訝そうに手に持ったシェイクを見つめた。
『どうしたの?』
「バニラシェイクのはずなのに、いま一瞬イチゴの味がした気がする」
『え、ほんと?』
「うん」
首を傾げながら再びストローをくわえる彼女につられて、オレも首を傾げる。
「あ!わかった!」
突然、彼女が身を乗り出してこちらに顔を寄せた。
驚いて固まったオレの近くでスンスンと鼻を利かせる仕草をする。
「松島くんだ。松島くん、イチゴの匂いがする」
『あ…そういえば香水つけられたんだ』
昼休み、莉子が「新しい香水、聡ちゃんにもつけたげる!」と言って小瓶を数プッシュしてたのを思い出す。
そうだ、長くて覚えられなかったけど、たしかストロベリーなんとかっていう名前だった気がする。
『ごめんね、匂い嫌だった?』
「ううん、2つの味が楽しめてなんだか得した気分」
『そっかぁ』
2人で目を見合わせて笑うと、それまでのどこか緊張した雰囲気がふっと緩んだ。
彼女の笑ったところを初めて真正面から見たけど、笑うと白い頬に小さくえくぼができて、少し幼い。
そういえば、と彼女が再び口を開いた。
「松島くん、どうしてわたしの絵を知ってたの?」
『好きだから』
ゴホッとシェイクをむせた彼女に、自分の失言に気づく。
『ちっ、ちがくて! 絵が! 絵がね! 美術の授業で目に入ったときからいいなってずっと思ってて!誰が描いてるんだろうってずっと気になってたから!』
いつも勝利に「聡の話は主語が足りないんだってば」と注意されることを思い出し、反省する。
彼女はパタパタと赤くなった頬を仰いだあと、でも、と仕切り直すように続けた。
「あの落書きだけでわたしってわかったのすごいね」
たぶん君の絵は全部見分けがつきます。
だけど、そんなこと言ったら気持ち悪がられそうで、俯いたままごにょごにょと言葉を濁し、『ていうか』と話を変える。
『あの食べものの絵のテーマって何? 自由テーマって聞いたけど』
何気なく尋ねた言葉に、「え」となぜか今度は彼女が固まった。
顔を上げ彼女の方を見ると、その顔はさっきと比にならないくらい、白い頬が耳まで赤く染まって、目線は急に宙を泳いで、唇はあうあうと動き。
「…内緒です」
小さく呟かれた声に、顔の熱がぐんと上がったのが自分でわかった。
なんだこれ。
『そっか…』
お揃いに赤くなった顔を俯けて、そう返すのが精一杯だった。
それから時折、彼女と話をするようになった。
それはたいてい、部活が終わったあとの校舎口で。
美術部とダンス部は帰る時間が被っているらしく、偶然、玄関で一緒になることが多かった。……ちょっとだけ、彼女が来るのを期待して玄関で時間を潰したりもしていたけど。
少しずつ話していくうちに、彼女のいろんな面が見えてきた。
教室での彼女は物静かだけど、2人になるとよく笑う。
しっかりしているように見えて、実は抜けてるところもあって、あと変なところでものすごく大胆だったりする。
このあいだ、校門前で道に迷ってる外国人に、すらすらと英語で道案内をしていて驚いた。
そういえば模試の成績もすごく良いって先生に褒められているのを聞いたことがあったなと思い出し、『どうしてもっと頭いい高校じゃなくてうちの高校にしたの?』と尋ねると、彼女は恥ずかしそうに言った。
「だってあの高校に通うには毎朝満員電車に乗らなきゃいけないんだもん。それがすごく嫌だったから、受験日に風邪をひいたの」
『受験日に、風邪?』
「そう。風邪引いて受験できなかったって言ったら親も納得してくれるかなって思って」
『待って、風邪って狙った日に引けるの?』
「受験日の3日前から冷水でシャワー浴びて、布団をかけずにタンクトップ1枚で寝るようにしたら、引けた」
どこか自慢げな表情で話す彼女がツボに入って、しばらく笑い続けると、彼女は困ったように「そ、そんな笑わなくても」と眉を下げた。
知れば知るほど、意外な一面が次々と見えて。
きっとそのことに気づいてるのはオレだけだ、と教室の中で真面目そうな顔をしている彼女を見るたび、ひそかに嬉しくなった。
だけど、そんなのは見当違いの優越感だったと気づかされる。
彼女と話し始めて1ヶ月くらいが経った頃、昼休みの廊下。
購買にカスタードパンを買いに行く途中、窓の外をボーッと見つめる彼女を見つけ声をかけると、彼女は慌てたようにこちらを振り向いた。
『何みてたの?』
「なんでもないよ!」
やけに赤い顔をして言うものだから、気になって窓の外を覗くと、そこにあったのは、外のベンチで昼ごはんを食べる知らない男子生徒の姿で。
ミシリ、と心のどこかで軋むような音がした。
さらにその数日後、追い討ちをかけたのは美術室の彼女の絵だ。
新しく描き始めたのであろう、その絵の真ん中。
鮮明に記憶に残っているあの窓の外の風景が重なる。
そこに描かれているのは、あの日、あの彼が食べていたカップ焼きそばで。
…そういうことか。
すべての記憶がその瞬間、全部繋がった。
テーマを聞いたときのあの赤くなった頬も、恥ずかしそうに泳いだ目も、震えていた唇も。
知っているのはオレだけだ、なんてバカみたいだ。
その先にいたのは、オレじゃない、あの人なのに。
「ねえ、松島くん」
『ごめん、オレ今日急いで帰らないと』
あの絵を見てからというもの、彼女とどうやって会話をしていたのか、思い出せなくなってしまった。