唇は赤く紡ぐ
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恋にならない人、というのは誰にでもいるものだ。
『そっちのショートケーキ、ひとくちちょーだい』
「嫌です」
『なんで?! お金払ったのボクだよ!』
「よく思い出してください。今日のお礼にここは払うよって言ったの先輩ですよ。いわばこれは労働の対価です、あげません」
『……ケチ………』
じゃあこっちのチーズケーキもあげないもん…と口を尖らせジト目でこちらを見る先輩に、チーズ得意じゃないので大丈夫です、と皿に視線を落としたまま返すと、もぉ〜〜と不満げな声とともに大げさなため息が聞こえた。
先輩はいつもそうだ。
少し舌足らずな甘い口調に大きめなリアクション。3月生まれの末っ子だからだろうか。その挙動は子どもっぽくて、どっちが歳下だかわからない。
彫りの深い端正な顔立ちをしていて目立つから、サークルの同期たちからは「あのマリウスさんに可愛がられてるなんて羨ましい」と言われるけれど、「可愛がられている」というよりは、どちらかというと「懐かれている」が正しい気がする。どれだけ素っ気なく接しても、数分後には『ねえねえ』と話しかけてくる。
ショートケーキをフォークで切り分けながら、フウッと小さく息を吐く。
疑り深い目で見てくる人もいるけれど、そもそもわたしのタイプは落ち着いて頼りがいがある人で、どこをとっても先輩とは重ならない。
さっきまでこちらに見せびらかすようにチーズケーキを食べ、わざとらしく「おいし〜い」と言っていた先輩は、ココアで口を火傷したのか、今度は「痛い…」と呟きながら舌をすーはーしている。
こういうところも、ほら、やっぱり恋にはならない。
無言で呆れながら、ふと、先輩の隣に置かれた紙袋に目線を移す。
その中に入っているのは、有名ブランドの赤リップ。
“いつもしっかりメイクしてて、コスメに詳しそうだから。”
そう言って、買い物の付き添いを頼まれたのは数日前だった。
「そういうのは、先輩が選ぶから意味があるんじゃないですか?」
プレゼントで口紅を渡したいから買い物付き合って、と言われたとき、最初はそう断ろうとしたけど、先輩は食い下がった。
『うーん、でもやっぱりちゃんと喜んでくれるものを選びたいじゃん? それに彼女、そういうのあんまり気にしないと思うから』
「そもそも、先輩、口紅をプレゼントする意味わかってます?」
『あたりまえじゃん、わかってるよ!』
はたして本当にわかってるのか、大きな不安が残ったが、自信満々といった様子の先輩に、そんなことはわたしが気にすることじゃないか、と小さく頭を振った。
それに、先輩は意外と頑固だ。
断る方が体力を使う、と判断したわたしは、早々に折れた。
「彼女さん、どんな方ですか? いくつか候補を絞っておきたいので」
雰囲気とか、顔立ちとか、性格とか。そう尋ねたわたしに、先輩はウーンと少し考えたのち、ふわりと表情を和らげた。
『んーとねー、雪みたいにふわふわしてて、花が咲くように笑って、太陽みたいに明るくて、だけどお星さまみたいな子』
「は?」
『そんなステキな女の子』
なんですかそれ、と聞いても、先輩はそれ以上なにも語らず、んふ、と屈託なく笑いながら、こちらの話を聞かずに「じゃ週末よろしくね!」とサークル室を出て行った。
「………ほんとなんなんだあの人……」
マイペースが過ぎるし、言ってることも半分くらい意味がわからない。
だけど、不本意ながら、こちらも先輩のマイペースに振り回されるのに慣れてきてしまった。
ため息をついて、結局、特徴がひとつも分からずじまいだった彼女のことを聞くため、先輩といつもつるんでいる別の先輩に連絡したのだった。
「でも、ほんとにそれ、わたしが選んじゃってよかったんですか?」
ケーキを食べ終え、リップの入った紙袋を指さして問えば、先輩はにこりと笑った。
『ん、いーの。君の選んでくれたそれ、ボクもいいなって思ったから』
「……先輩に彼女いるって話聞いたことなかったから、実は少しびっくりしてました」
なるべく平静を装って言えば、先輩は、今度は慎重にフーフーとココアを冷ましながら、コクリと首を縦に振った。
『そういえば、あんまりそういう話しないからねぇ。それに彼女、今はちょっぴり遠いところにいるから』
「……“雪みたいにふわふわしてて、花が咲くように笑って、太陽みたいに明るくて、だけどお星さまみたいな子”でしたっけ。星と地球じゃ、そりゃ遠いですね」
『そ。だから、彼女とボクは、数万光年離れた遠距離恋愛』
ロマンチックでしょ?、と先輩は片眉を上げて、カップの向こう側からおどけたような表情でにこりと笑った。
窓から差し込む春の日差しが先輩の長い睫毛を縁取る。
そうですね、なんて曖昧に返して、喉元につかえた感覚を紅茶でごくごくと流し込んだ。
カップひとつ持つのですら洗練された仕草や、わざとひょうきんに振る舞う姿や、ふとした瞬間見える深い知性をたたえた目。
いつもは子どもっぽいのに、時々、先輩は、とても先輩だ。
そのことをふとした瞬間に改めて突きつけられるたび、切羽詰まったような気持ちになり、小さく動揺する。
紅茶は、苦くて、苦くて、思わず涙が出そうになってしまって、慌てて眉根にギュッと力を込めた。
数日前、先輩にプレゼント選びの付き添いをサークル室で頼まれた日。
あの日、先輩と高校からの仲である電話の相手は、ひとしきり先輩のマイペースさに対するわたしの愚痴を苦笑しながら聞いてくれた後、すこし寂しげな声で
“そっか。もう、あいつの誕生日の時期か”
と呟いた。
雪みたいにふわふわしてて、花が咲くように笑って、太陽みたいに明るくて、だけどお星さまみたいな彼女。
彼女は今年、3度目の17歳の誕生日を迎えるのだと、その電話の相手は言った。
『会いたいな』
その甘い声で小さく呟かれた言葉は、午後のカフェの喧騒をすり抜けて、わたしの耳にそっと届いた。
頬杖をつき窓の外の休日の街並みを見ながら、先輩は、穏やかな笑みを口元ににじませる。
異性に口紅を贈る意味。
────“あなたにキスしたい”。
叶わない願いを抱きながら、何万光年も先にいる彼女を、先輩はずっと想い続ける。
恋にならない人、というのは誰にでもいるものだ。
子どもっぽくて、すぐ言い訳をして、末っ子気質。
考え方も感覚も全然ちがう。全然タイプじゃない。
だから先輩は恋にはならない。
恋には、しない。
鼻の奥に力を込めて、先輩と同じように窓の外を見る。
真昼間の空の中で、星がちかりと光った気がした。
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