唇は赤く紡ぐ
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ピラミッドの形に積み上げたトランプを指先でトンとつつく。
絶妙なバランスで立っていたトランプはパタパタと崩れていった。
昔からそうだった。
不安定なバランスで保っているものを見ると、その均衡がいつ崩れてしまうのかハラハラして、いっそ自分の手で壊したくなってしまう性分だった。
『せっかく積めたのに、壊しちゃったの?』
見上げると、皿を持った聡くんがひょこっとこちらを覗き込んでいた。
『おまたせ。今日はねぇ、アヒージョに挑戦してみた』
はい、とエビが刺された爪楊枝を差し出される。それを受け取り、頬張ると、弾力のある食感と程よい塩気が口に広がった。
「…やっぱり美味しすぎ。もう聡くんと結婚して毎日これ食べたい」
リップ塗らないで味見を待ってた甲斐あった、と笑うと、聡くんも照れたように笑った。
大学進学に合わせて上京してきた聡くんが、わたしの家に住み始めたのは2年前のことだった。母親の幼なじみの親戚。そんな他人同然の人間との同居を了承するなんて、と友人には心配を通り越して呆れられたけど、30手前の寂しさを埋めるにはちょうどいい、とその時のわたしは思ったのだ。
実際、彼との同居生活は思った以上にわたしの心を満たした。
聡くんは、華奢な体つきとは反対に、まるで大型犬のように穏やかで、素直で、そして少し頑固で。
ただ居候するだけは嫌だからせめて料理はオレにやらせて、と料理初心者だったにも関わらず、そう言って譲らなかった彼に、最初こそヒヤヒヤしながら不安定な包丁使いを見守っていたけれど、その腕前はみるみる上がり、いまやすっかり胃袋を掴まれてしまっている。
「もーほんとに聡くんの彼女になる人は幸せだね!」
にこりと笑ってみせると、聡くんは曖昧に『そう?』とだけ言い、前髪を触るふりをしてその表情を隠した。
────ごめんね、聡くん。
柔らかそうに揺れる聡くんの前髪を見ながら、心の中でぽつりと呟く。
わかりやすい牽制の言葉を言うたび、君が傷ついているのをわたしは知っている。
だけど、10歳差で、しかもまだ学生の君と、もう仕事で部下がいるようなわたしでは、未来がないのは誰に言われずともわかりきってる。
「あ……そろそろ行かなきゃ」
時計を見ると家を出る時間が近づいていた。
リビングを出て洗面所で口をゆすいでいると、とてとてと足音を響かせながら聡くんも出てきて、物言いたげな目でこちらをじっと見た。
「何?」
鏡越しに尋ねると、聡くんは少し俯いた。
『ほんとに行くの?元カレのとこ』
「……ただ借りっぱなしになってたものを返しに行くだけだよ。それに今はもうただの友だち」
『……そっか』
3ヶ月前に付き合っていた恋人に振られたとき、聡くんは一晩中わたしに付き合ってくれた。飲んで食べて、さんざん愚痴って、お酒が足りないと言って2人で夜のコンビニに繰り出して。
楽しかったな、あれ。
洗面台の鏡を見るとくっきりメイクが施された顔の中で、聡くんの料理を食べるためにまだ色を塗っていなかった唇だけが、浮いていた。
化粧ポーチからいつもの赤リップを取り出す。もともとこれも元カレがプレゼントしてくれたものだった。
『まって』
うしろから声がして振り向くと、聡くんは
『それ塗るの、ちょっと待って』
と言って、リビングに行き、程なくして白い紙袋を抱えて戻ってきた。
『はい。これ、プレゼント』
「え……」
手渡された包みを驚きながら開くと、1本のリップが出てきた。キャップを開けると、薔薇のような真紅が目に飛び込む。
『そっちじゃなくて、これ塗っていって』
「ちょっと聡くん」
やだな、どうしたの、と笑って茶化そうとした言葉は、彼のすうっと細くなった真っ直ぐな視線に阻まれた。
濡れたような瞳でわたしを見る彼に、口に出そうとした薄っぺらい言葉たちは、音になる前にはらはらと落ちていく。
『オレに塗らせて』
返事を待たず指から静かにリップが抜き取られ、彼はわたしの頬に手を当てると『口、ちょっと開けて?』と小さく言った。
わずか10数センチ先。
まだ幼さを残した、少年と青年を行き来する顔。
聡くんは、時折、とても危うくて。
────だから、抗えない。
言われた通りに口を開くと、聡くんは伏し目がちにわたしの唇をゆっくりと赤でなぞった。触れたところに反応するように、唇が疼く。
リップはひんやりとして、頬に添えられた聡くんの手の温度とアンバランスで、その熱を妙に意識してしまう。
『……できた』
パチンとキャップを閉じる音に伏せていた目を上げると、眉を下げ悲しそうに笑う聡くんと目が合った。
そのまま、彼はふわりとその頭をわたしの肩に預ける。
甘いムスクの匂い。
首元から聡くんのくぐもった声が聞こえた。
『……ねえ、行かないでなんて言わない。…言わないから、かわりにキスしても、い?』
懇願するような弱々しい声音に、心がぎゅっと鷲掴みにされる。
だけどそれでも。
「…聡くん、だめだよ」
脳裏をよぎったのは、あの振られた日。あの日、わたしはぐでぐでに酔いながら、おんなじようにぐでぐでに酔った聡くんの隣で、心底思ったのだ。
もしこの子がいなかったら。
本人には言わなかったけど、振られた理由は、聡くんだった。当たり前だ。わたしだって彼氏が若い女の子と同居なんて許せるはずがない。
だけど、わたしはどうしても聡くんと離れて暮らす選択肢を取ることができなかった。
彼氏に振られることなんかより、この子の温かさを手放すことのほうがわたしには痛手なんだ、と隣でほわりと笑う彼を見てはっきりと自覚した。
『………そっか』
聡くんは肩に顔をうずめたまま、小さく返事をした。
ごめん、聡くん。
罪悪感と一緒に、首元をくすぐるその頭に手を伸ばそうとしたその時。
『でもごめんね。オレももう限界』
肩もとにあった頭はいつのまにか目の前にあった。
後ろに回された手に抵抗する間も無く引き寄せられ、唇に体温を感じる。
強引な手つきとは正反対の、柔らかく口付けられた感触。
触れたところが、熱い。
これまで他の人と、もっと深いキスもしてきた。もっと激しいキスもしてきた。
だけど、ただ触れてるだけなのに、今までのどのキスよりも全身が溶けそうになって、思考は奪われる。
お互いの唇の熱が一緒になった頃、名残惜しそうにそっと体を離した聡くんの唇は、さっき聡くん自身が塗った色で赤く染まっていた。
華奢な聡くんに、抵抗をすることはできたはずで、だけどわたしはそれをしなかった。
もう、なんの弁解もできなかった。
唇の色は塗り替えられてしまった。
冗談めかした言葉も、もはやなんの思い入れもない元カレの赤リップを使い続けていたのも、君への牽制なんかじゃなくて、わたし自身への牽制だった。
これ以上、君に揺り動かされちゃダメだ。
この関係を動かしてしまったら、いつかそれは終わりに向かう。
この隣の温もりが消えてしまう日が来る。
ずっとそう言い聞かせていたけど、そんなもの、結局建前にすぎなくて。
だって本当は、ずっと欲しかった。
聡くんのシャツの袖を掴み、背伸びをする。
触れ合った唇と、頭の後ろに回された熱い手。
わたしは静かに目を閉じる。
ああ。
やっと、壊れた。