唇は赤く紡ぐ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
君が化粧を変えたとき、そろそろ潮時かなと思った。
若草色のカーテンの隙間から差し込む光で目を覚ますと、視界の端で何かがきらりと反射した。ベッドの縁とマットレスの間に挟まっているそれに手を伸ばす。0.1もない視力では、手にとって近くで見るまで、それが口紅だということがわからなかった。鮮やかな赤の口紅は、しばらく使われていないのか、少し埃をかぶっていた。
「あ、起きた」
聞こえた声の主は、ピアスをつけながら鏡越しにこちらを見た。
「もう、風磨ほんとに寝起き悪いんだから」
昨日の夜、このベッドの上で啼いていた彼女は、そんな余韻などひとつも残さないかのように着々と出かける準備を進めているようだった。
ベージュのワンピースに薄づきの化粧。
以前の真っ赤で派手な色とは正反対の、控えめに塗られたピンクのリップ。
パーソナルカラーがどうこう、なんて言って、突然がらりと服や化粧を変えたのは1ヶ月くらい前だったろうか。
まだ寝起きのぼんやりとした頭で思い出す。
「合鍵持ってるよね?わたし先出ちゃうから、それで鍵かけてって」
別に、服や化粧を変えるなんて、よくある些細なことだ。
だけど、会えば必ずセックスして、ついでにたまに遊ぶようなオレたちのお友だち関係なんて、そんな些細な、風に吹かれたみたいなことがきっかけで変わるくらいがちょうどいいだろう。
『や、もう合鍵返すわ』
「え?」
『もうここに来んのやめる。お前ともこれでおしまい』
ベッド横に散らばる服を集めて着る。
彼女はこちらを振り向き、困惑した表情を浮かべていた。
「え、ちょ、いきなりなんで」
『や、なんつーか、飽きたから?』
は?と眉を顰める彼女に、へらりと笑う。
『あと、その化粧とか服とかあんま好きじゃないんだよね。どうせヤるならタイプの子がいいじゃん』
ベッド脇に置いていた眼鏡と腕時計を身につけて、ポケットにしまう前に財布から鍵を抜き出し、テーブルに置く。
カランと乾いた音を立てて置かれた合鍵を見て、彼女は
「……本気なの?」
と呟いた。
『嘘つく意味ねーじゃん』
腰掛けていたベッドから立ち上がり、ひとつ大きく伸びをして、玄関へ向かう。スニーカーがたくさん並べられていたはずのそこには、いつのまにかヒールの方が多くなっていた。
靴を履いていると、彼女がトコトコと部屋から出てきて、後ろからじっとこちらを見ているのが気配でわかった。トントンと爪先を何度か床で叩いて靴にかかとを収め、彼女の方に向き直る。
清楚なワンピースに似合いの華奢なデザインのネックレスが首元で光る。
ただ欲をぶつけ合うだけの関係だったけど、そのネックレスが誰からもらったものかなんて、そんな無粋なことを聞かないし言わないような気遣いだけは、お互いできた。
『じゃ、達者でな』
ドアノブに手をかけると、「風磨」と小さく呼び止められた。
振り向くと、彼女の瞳が揺れていた。
「風磨、ね────」
何か続けようとした言葉は、引き寄せて塞いだ唇の中に閉じ込めた。
絡めとった舌はいつもどおり熱くて柔らかくて、ただ、前までの赤リップとは違う色の味が、口内に広がって苦かった。
唇を離すと銀色の糸が引き、親指で彼女の口を拭ってその糸を切ると、さっき綺麗に乗せられていたピンクが彼女の唇をはみ出して頰の上でにじんだ。
『……うざ』
ただお互い都合の良い存在だった。それだけだ。
そこに感傷はいらない。
ドアを開け部屋から出る。閉じる扉の隙間から一瞬見えたのは、唇を噛み締めて怒っているような、泣き出しそうな、彼女の顔だった。
時間はもうすっかり昼間で、空腹だったけど何かを食べる気にはなれず、ふらりと帰路を辿る。
からりと晴れた空を見上げて、彼女もこんな鮮やかな色の服をよく着て、真っ赤な唇で笑っていたなと思い出す。
パーソナルカラーなんてもん、いったいどこのどいつのために気にしだしたんだか。
ベージュのワンピースも薄いピンク色の口紅も、たしかに君に似合っていたけど、予定調和すぎて嫌いだった。
好きな服しか着たくない、と言っていたのに、急に「わたしに似合う服ってなんだと思う」なんて聞いてきた君が嫌いだった。
どうせ脱ぐんだからなんでもいいじゃん、と笑いながら返すと、下唇を突き出し「もういい」と拗ねた君が嫌いだった。
首に手を回して引き寄せると、ふてくされたまま、それでもキスをねだってくる君が嫌いだった。
最中に、背中にすがるように手を回す君が嫌いだった。
翌朝、あどけない顔つきで隣で丸まりながら眠る君が嫌いだった。
君の一挙手一投足、全部大嫌いだった。
気づけば、パーカーの中で、彼女の部屋からもちだした1本の口紅を握りしめていた。
キャップを開けるとその中身は、手の熱で、どろりと赤く、溶けていた。