空気人間
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翌日の学校は本気で休もうか迷ったけれど、気力で登校した。その日はよりによって日直で、授業を受け終えたあと理科のプリントを集めて提出しに行かなければならず、やっぱり休めばよかったと後悔した。
クラスのプリントを持って、職員室に行くと、先生の姿は見えず、どうやら理科準備室にいるようだった。
来慣れた理科室の、その少し奥。
理科準備室の扉を開けると、中にいた先生がこちらを見て、ふわりと笑った。
「プリント、もってきてくれたのね。ありがとう」
真っ白な白衣の上で、一つにまとめた黒髪がさらりと揺れる。
まっすぐな黒髪。ブルべの陶器肌。
昔からずっとそう。この人は、わたしの欲しいものをぜんぶ持っていた。
「………お姉ちゃん」
彼女は眉をわずかに下げる。
「学校では、先生って呼びなさいって」
「お姉ちゃん、中島くんにキスされたでしょう?」
姉は、すこし目を見開いた。
わたしはぜんぶ知っていた。いとしそうに人体模型をなぞる彼が、その向こう側に何を見ていたのかも、理科の授業の時、時折教卓に向けられた目線が何を想っているのかも。
ぜんぶぜんぶ、知っていた。
「なんで受け入れてあげなかったの?中島くんはずっとずっとお姉ちゃんのこと好きだったのに。中島くんはずっと本気だったよ。なのになんで!!」
自分でもめちゃくちゃなことを言っているのはわかっていた。それでも止まらなかった。
綺麗に整理整頓された理科準備室に、わたしの荒げた声はひどく不釣り合いだった。
すこしの沈黙の後、姉はぽつりと言った。
「〇〇は、中島くんのことが好きなのね」
下唇を噛んで黙ったわたしを姉がやさしく見つめる。
「人を好きになる気持ちって、それだけで尊いものだと思うわ」
訥々と紡ぐ言葉は、いつものようにどこまでもすなおに響く。
でもね、と彼女は続ける。
「出口のない恋愛って、幸せになるほど不幸なのよ。中島くんにそんな思い、させるわけにはいかないじゃない、教師として」
いつもすなおな姉の言葉は、そのときだけ、わずかに揺れた。たぶん、それは、半分は中島くんに向けられたもので、半分は自分自身に向けられた言葉だった。
“こそっと嬉しそうに「彼氏にもらったんだ」って”
中島くんの言葉を思い出す。
姉が本当に欲しかったのは、ネックレスじゃなくて、きっと、切られた指輪だったのだろう。
ふい、と遠くに落とされていた目線が、再度わたしを捉える。
「あのキスは、だから、犬にかまれたようなものだと思ってるわ」
もし彼がそのことを気に病んでいるようだったら、もう気にしてないよと伝えて。
いつもどおりのふわりとした表情に戻って、姉は笑った。
わたしは何も言えないまま、逃げるように理科準備室から出て、そのまま女子トイレに向かう。個室の中に入ってようやく顔を上げ、頬を伝うものをごしごしと袖口で拭いた。
わたしの好きな人たちがみんな幸せになればいい。
お姉ちゃんも中島くんも、みんなみんな。
彼の猫のような佇まいや、犬みたいなふにゃりとした笑顔を思い出す。犬にかまれたようなもの、と言った姉の言葉も。
たしかに似ているけど、だけど。
彼は、最初から、わたしにとってはまぎれもなく、ただひとりの男の子だった。
ひと月、ふた月と時は流れ、あっというまに季節は冬から春に移り変わろうとしていた。
体育館ではちょうど離任式が終わって、終業式が始まったころだろうか。お世話になった先生もいるのにサボるなんて薄情なやつだ、と自分に発破をかけてみるも、面倒なものはどうしても面倒だ。
理科室は相変わらず静かで、変わったことといえば、以前は苦手だったこのゆったりと時間が沈殿している感じが、わりと好きになったということくらいだろうか。人体模型も、以前と変わらず、窓の日の光を浴びて艶を放っていた。
あれから、中島くんとは一言も話していない。そんなつもりはなかったにせよ、彼をだまし続けていたわたしのことを、きっと彼は怒り、軽蔑しているだろう。
「先生」が不倫をしていること。わたしが「先生」の妹だということ。映画なんて本当は撮る必要がなくて、とっさのでまかせの口実だったこと。
数えればきりがないほどだけど、きっと彼はもうそのほとんどに気づいているのだろう。直接確認したわけではないからわからないけれど、なんとなく、そんな気がした。
自責の念にさいなまれ、廊下の奥に彼の姿を見つけると、隠れるように別の廊下を選んで歩くようになった。合同授業でも、なるべく存在を消すよう努めた。
なんてことはなかった。昔から、空気として生きるのは得意だったから。
テーブルにうつぶせて目を閉じる。
春の空気に溶けるように、わたしはそのまま意識を手放した。
目が覚めると、夕暮れが差し込んでいて、眠る前は窓からの陽で温かかったテーブルもすっかり冷たくなっていた。ぶるっと身震いをして身体を起こす。
『よだれ、垂れてるよ』
聞こえた声に心臓が打たれたように跳ね、椅子から転げ落ちそうになる。
なんとか体勢を立て直し、前を向く。中島くんが頬杖をついて、こちらを見ていた。
どうして。
わけのわからないまま、はい、と渡されたティッシュを受け取り、口元を拭く。あまりの驚きに、手が震えていた。
『さっき先生に告白してきて、正式に振られてまいりました』
「え」
『先生、転任しちゃうし、やっぱりこういうのはきちんと自分でケリをつけないとなと思って』
シャンと背筋を伸ばして、彼はすこし照れたように小さく笑った。
ひさしぶりに直視したその顔は、戸惑いや懐かしさや罪悪感をひとまとめにして心の芯の部分をぎゅっと締めつけた。
震えをおさえて、なんとか声を絞り出す。
「あの、その節は本当に」
『謝らないで』
中島くんはわたしの言葉をさえぎって、眉を下げた。
『オレもひどい態度をとったから。本当にごめんね』
それに、と彼はつづけた。
『本当は最初から、君と先生が姉妹だっていうことは知ってたんだ』
彼の言葉に、思わず顔を上げる。
「どうして。わたしとお姉ちゃん、全然似てないのに」
『声が同じだったから』
「こえ?」
『そう。廊下ですれ違ったとき、たまたま聞こえた声が先生にそっくりで、誰だろうって気になってたんだ。苗字も一緒だったし、先生に聞いたらオレと同い年の妹がいるっていうから、ああきっと君なんだろうなって』
彼は申し訳なさそうに、ますます眉を下げた。
『だから、先生を追っていったときオレが君に言ったひどい言葉は、ぜんぶ八つ当たりだったんだ。本当にごめん。だまされた、なんてひどい勘違いで、きっと君は、先生の、お姉さんの恋を守りたかっただけだったんだよね』
中島くんは、こちらの謝罪を拒否しておきながら、自分は何度も「ごめんね」と繰り返した。
そんなに謝らないで、と言いたかったけれど、なんだか言葉が出てこなくて、ふるふると首を振るのが精いっぱいだった。
『この2か月間、何度も理科室でのことを思い返してた。声以外は全然先生と似てない。態度もちょっとつれない。だけど、そんな君といる時間が一番楽に笑えてた。君とのくだらない会話を何度もなぞって、たぶんきっと、あの時間が、高校生活の中で一番肩の力を抜いて、自分らしくいられた時間だった』
告白して振られた後、そのこと先生に話したら、いい子でしょう、自慢の妹なのって、笑ってたよ。
中島くんは、なぜか嬉しそうにそう言った。
差し込む夕日で、アルコールランプも、三角フラスコも、すべてが黄金色に染まっていた。理科室はいつも以上に時間がゆっくりと流れているようで、ふわふわと現実離れした感覚に包まれる。
『それとあとひとつ』
中島くんがいたずらっぽく笑い、ずいっとこちらに身を乗り出す。
『君、まだひとつ隠し事してるでしょう』
「えっ」
心当たりがなくて首をひねると、彼は少しだけ頬を膨らました。
『オレ、先生に聞いたよ。先生がくれたあの絆創膏、本当は君のものだったんでしょう?』
あっ、と思わず口に手を当てた。
中島くんの言っていることは事実だった。雑誌の抽選で当てたあのキャラクターの絆創膏。あれは非売品で、だから中島くんの頬にのったそれをみたとき、すぐに、朝、家を出るとき姉に渡したものだと気づいたのだ。
それが、わたしが彼を目で追うようになったきっかけでもあった。今の今まで忘れていた。
『どうしてあの時言ってくれなかったの』
詰め寄る彼に、ごまかすように顔をそむける。
だって、素敵な出会いのエピソードに、わたしが登場してはいけないと思ったのだ。わたしは空気。よけいな主張をして、二人の記念すべき思い出の邪魔をしてはいけない。
そう、思っていた。
ねーねーとしつこく詰め寄る彼を、うるさい、と言ってどかして逃げる。ちょっと!と言いながら追いかけてくる彼に、走りながら、おもわず笑った。
姉はずっとわたしの憧れだった。
わたしは、まばゆい光を透き通す空気のような存在、のはずだった。
さっきまでは。
生徒玄関を飛び出し、くるりと振り向く。
すこし離れたところにいる中島くんに「また新学期ねー!」と叫ぶと、彼はぶんぶんと手を振り回して応えた。
校門沿いの桜の木は、つぼみがいっぱいに膨らんで、訪れた季節に喜びをおさえきれないようだった。次にこの道を通るときは、もしかしたらいくつか花をつけているかもしれない。
校門まで一気に駆け抜ける。
わたしは春の空気を深く深く、すいこんだ。
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