空気人間
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家に帰りリビングのドアを開けると、「おかえり」の声とともに、テレビ周りの棚を掃除する姉の姿が見えた。
「ただいま。めずらしい、お姉ちゃん今日早いね」
「のこってる用事もなかったから。〇〇は今日おそかったね」
「ちょっと、やることあって。お姉ちゃんは早く帰ってきたのにまた掃除?」
「いいじゃない。掃除、唯一の趣味なんだもの」
幼いしぐさで口を尖らし、姉は棚拭きに戻った。
同じ学校に通うわたしたちだけど、いつもはわたしが早く帰り、姉がそのあと帰ってくるのが普通だったから、なんだか不思議な感じがした。
母が作り置いたカレーを温め直しながら、今度はテーブル周りの掃除を始めた姉をキッチン越しにそっと見る。
姉は、一言で言えば、わたしがほしいものを全て持っている人だった。
長いストレートの黒髪。何をしなくても上を向いている睫毛。陶器のようなブルベ肌。笑うと白い頰に落ちるえくぼ。
美人は隙がなく冷たい印象を与えがちというけれど、彼女は邪気がなく、無垢で、子どものように笑う人だった。
姉と性格も容姿も全く似てなさすぎて、母に「わたしってやっぱり河原とかで拾われてきた子なの?グレたりしないからほんとうのこと言って」ときいたことがある。「なにバカなこと言ってんの」と一蹴された。どうやらわたしと姉は正真正銘血のつながった姉妹らしい。ひどくいたたまれない事実に落胆した。
小さいころは、姉の服、姉の持ち物、姉の好きな食べ物、とにかく姉のすべてを真似していた。幼少期の写真は、格好も髪型もそっくりな私たちばかりだ。
だけど、恰好や髪型をいくら同じにしたって、写真の中の姉と私の間には、はっきりとした線引きがされていた。選ばれた人間と選ばれなかった人間。同じものを身につけていても、親戚や友だちが褒めるのは姉の方だった。ああ、結局私は姉にはなれないのだ、と気づくのにたいして時間はかからなかった。
その気づきを得てから、わたしは姉の隣に並ぶとき、なるべく空気になるように努めるようになった。姉を褒めそやした人たちが、隣にいる地味な妹に気づき慌ててフォローする、なんてのは、フォローする側もされる側も「あは…は…いえいえ……」なんて気まずい雰囲気にしかならない。これはわたしが見いだした人間関係を良好に保つ秘策だった。10数年ひたすら空気になる道を磨いてきたおかげで、いまや私はどんな場でも一瞬で空気になれる。もはやその腕はプロといって差し支えない、とひそかに自負している。
同じ学校に通っていながら、校内でも、姉とわたしが姉妹であることを知っている人はほとんどいなかった。
カレーを食べていると、突然テーブルを揺らす振動音が響き、驚いた。
姉が慌ててテーブルに置いていた彼女のスマホを手に取り、電話に出る。
「うん、うん。ふふ、そんなことないよ」
綺麗な桃色に頬を染めているところを見ると、どうやら相手は彼氏のようだ。幸せそうな人を見ると反射的に「ケッ」と思ってしまうひん曲がった性根のわたしでも、口元を花のようにほころばせている姉の姿はすなおな子どもみたいで、むしろ母親のような気もちで見守ってしまう。
告白されて流されるように付き合うことが多かった姉だが、半年前から続いている今の彼氏はどうやらこれまでとは違うらしい。一度、街で二人を見かけたことがある。姉を車で迎えに来た様子の彼氏は、落ち着いた雰囲気の年上で、その横でふわりと笑う姉は、心の底から幸せそうだった。姉が遠くから見ている私の視線に気づき、目が合うと、彼女は人差し指を小さく唇にあてた。ひみつだよ、とでもいうようなその表情は、すぐに車に乗り込んでしまったから、一瞬だけだったけれど、普段の天真爛漫な姉とは違って、どこか色気があり、妹ながらどぎまぎしてしまった。母と夕飯の適度な話題にできていた歴代彼氏とは、やはり別格らしく、姉の今の彼氏の存在は、私と姉だけの秘密だった。
撮影を始めてから二週間が過ぎ、放課後に理科室にむかうのが日課になりつつあった。理科室のドアを開けると、すでに中島くんは来ていて、なぜか丸底フラスコを片手にし、それをじっと見つめていた。
「………どうしたの」
奇怪な行動をとる彼を無視したい気持ちはやまやまだったが、見てしまった以上声をかけざるを得ない。
『なんだか、丸底フラスコってエロティックな形をしてるなと思って』
「は?」
『完璧な丸を描く下の部分と、そこにまっすぐ突き刺さる上の口の部分。すごく扇情的な形じゃない?』
「やっぱり話しかけるんじゃなかった」
最初に撮影した時に思った「もしかして彼は変態なのかもしれない」という疑念は、確信に変わっていた。同時に、初めに抱いていた猫のような印象も、最近ではチワワのような超小型犬の印象に変わりつつあった。
いつものビデオカメラを取り出し、録画ボタンを押す。「声かけてから撮って!」とうるさく言っていた言葉も、近頃は聞かなくなった。
今もカメラが回っていることを気にせず、のんきにどこかから出したみかんをむいて「君もたべる?」なんて差し出してくる。 片手でカメラを持ち、もう片方の手で中島くんからもらったみかんをたべると、中島くんは「ビーカーでお茶とか淹れられないのかな」と呟いた。
最初の猫のような排他的な顔つきからは想像できないような、ほにゃんとくつろいだ表情と言葉に、この人はほんとうに同一人物なのだろうかと思ってしまう。
「校内でみかける中島くんとここでの中島くんの印象があまりに違いすぎて、正直わたしは中島健人双子説を立て始めたよ」
『ざーんねん。オレはひとりっ子だよ』
みかんをまたひとつちぎって、彼はにっこりと笑う。
『ふだん学校の中では、誰にも目をつけられないようにって結構気を張ってるから』
「なんで?」
『中学まで女の子の友だちしかいなかったんだ。それも、告白されて断ってを繰り返してたら、結局周りに友だちがいなくなった。だから、高校では絶対に男友だちをつくろうと決めてたんだ』
「目をつけられないようにって、女の子に目をつけられないようにってこと…?」
マンガの世界のような話に軽くめまいがした。でもたしかに、彼の端正な顔でこんなふにゃりとした態度をとられたら、世の女子たちがくらっと落ちてしまうのも分からなくもなかった。
『君のことも、最初は脅されてピリついてた。けど、考えようによっては、オレの恋愛事情を知ってるのは君だけだから、不本意ないきさつではあったけど、唯一の話し相手兼相談相手ができたってことだ。それって結構貴重なことなんじゃないかなって。しかも案外、君は悪いやつじゃなさそうだ』
友だちとコイバナとかちょっと憧れてたんだ、と照れくさそうに握手を求めてきた彼は、やっぱりちょっとずれている。
「友だちじゃないです。わたしたちは、あくまで脅してる側と脅されてる側」
えー、と不満そうに声をあげながら、中島くんは差し出した手を下ろし、だけどすぐにけろっとした様子で、かわりにまたわたしにみかんを渡した。
「ずいぶんたくさんみかんを食べるんだね」
次から次へと出てくるみかんの誘惑に、結局カメラは三脚で固定して、空いた両手でわたしもいそいそとみかんをむく。
『冬は風邪をひかないように、みかんでたくさんビタミンCを摂るようにしてるって、前に先生が言ってたから。先生との共通点がほしくて、オレも10箱みかんを買ったんだ』
手元のみかんに込められた激重感情をさらりと告白され、ゴホゴホとむせる。なんてものを食べさせられていたんだ。
そんなわたしを尻目に、彼は深いため息をつきながら机に突っ伏した。
『ああ…まだ先生にあの日のこと、謝れてないんだよなぁー……』
「あの日のことって、キスのこと?」
口元を拭きながら尋ねると、彼は力なく頷いた。
『あの日、ほんとうは告白するつもりだったんだ。先生に会いに行って、でも先生が見慣れないネックレスをつけてたから、何の気なしにそのネックレス可愛いねって言ったんだよ。そしたら、こそっと嬉しそうに「彼氏にもらったんだ」って。もう、目の前が真っ暗になって、どうしたらいいかわからなくなって』
「気づいたらやってしまいました、と」
最低だね、と言うと、とどめを刺されたように彼はがくりとうなだれた。
うう、とか、あああ、とか、しばらくそんなうめき声が聞こえた後、ぱたりと静かになって、そのあとぼそりと声がした。
『ねえ……一緒に謝りに行ってくれない…?』
突然の申し出に、みかんをほおばったまま目の前の頭を見つめると、彼は組まれた腕の隙間からうるうるとした目をのぞかせた。
「なんで、わたしがそんな気まずい役目!ぜったい嫌だ!」
『ねえ、おねがいおねがいおねがい!1人は心細いんだよ!』
すがるように掴まれた腕は、振りほどこうとしてもまったく離れず、びよんびよんと二人の間で揺れる。
『いてくれるだけでいいから!ね!』
「わたしがいる意味ないじゃん!」
『ドキュメンタリー撮るんでしょ?!』
放たれた彼の言葉に、言葉を詰まらせる。その一瞬の間を彼は逃さなかった。
『オレがキスのことを先生に謝るのって、絶対必要なシーンだよね?だってドキュメンタリーを撮るきっかけも、保健室のあの時からだったもんね?ね?』
重ねられる言葉に、どんどん反論の選択肢がなくなっていく。彼の言っていることは、悔しいことにどう考えても正論だった。
因果応報。人を脅したツケがこんなところでまわってくるなんて。
わかった、と絞り出したわたしの言葉に、彼は満面の笑みでうなずいた。
次の日、待ち合わせたのは理科室ではなく生徒玄関だった。
『さすがに校内だと誰に聞かれるかわからないから、先生の帰り道に偶然を装って話しかける作戦にした』
緊張の面持ちでそう話す中島くんには、誰かの後を尾けるってすなわちストーカーでは?というわたしの提言は聞こえていないようだった。
『あっ!先生だ!』
中島くんの言葉にスマホの画面から目線を上げる。
もう日が落ちて暗くなりかけていたけれど、たしかに、校門からでていく先生の見慣れた後ろ姿が見えた。さすがにいつものビデオカメラを構えるわけにもいかず、スマホのカメラで代用する。
こそこそと教師の後を尾ける生徒二人。
通報されたらなんて言い訳しよう、と隣でまじめな顔をして先生の後ろ姿を追っている中島くんの顔を見ながら、短くため息をついた。
校門を出た先生は、スマホを見ながら歩いていく。どうやら誰かと連絡を取り合っているらしい。わたしたちは、建物の影や電柱柱の裏に隠れたりしながら、こそこそとその後を追う。
「ねえ、中島くん、どこで話しかけるの。これだと本当にただのストーカーだよ」
『まってよ、心の準備ってものが』
小声で言い合ううちに、先生はどんどん人通りの少ない道へ入っていく。
あれ、どうして。
そう疑問をもったときに、引き返していればよかったんだ。
先生が立ち止まったのは、道沿いに止められてある高級車の前だった。嫌な予感は確信に変わり、構えていたスマホをしまい慌てて中島くんの袖を引っ張る。
「中島くん、やっぱり帰ろう。先生も用事があるみたいだし」
声をかけたときにはすでに遅かった。中島くんは、目の前の光景に見入っているようだった。
高級車の運転席から男の人が出てきて、先生の前に立ち、助手席のドアを開ける。
ああ、せめて街灯がなかったらよかったのに。そしたら、男の人が薬指にはめているものが、この暗闇に紛れて見えなかったかもしれないのに。
先生が嬉しそうに微笑みながら車に乗り込むのと、隣の影が動いたのは同時だった。
「出て行っちゃだめ!!」
とっさに掴んだ腕に、中島くんが振り返る。
『離して!君だって見ただろ!あの男、指輪してた!!』
「見たよ!だけど出て行ってどうするの!」
『先生を止めるんだよ!』
「中島くんにそんなことする権利ない!」
『君にもオレを止める権利はない!』
その言葉にたじろぐ。自分で言った言葉をそっくり返されただけなのに、ぐさりと抉られた。
中島くんはゆるんだ私の手を振りほどいて飛び出したけど、もうすでに車は走り去った後だった。
小道は静けさを取り戻す。
呆然としたようにその場に立ち尽くしていた中島くんは、しばらくして、ゆらりとこちらを振り返った。
冬の真白な吐息とともに、彼は私に問いかける。
『……君は、もしかしてぜんぶ知ってた?』
うつむいたわたしを見て、彼は合点がいったように、そっか、と薄く笑った。
『先生先生って、右往左往してるオレを見てるのは、たのしかった?』
否定の言葉は、暗く沈んだ目線に阻まれて、喉元で消えてしまった。
『映画はバッドエンド。もうそれでいいよね?』
立ち去る足音が、冷たく聞こえる。小道を吹き抜ける風が、ざらりと頬を撫で、空を見上げると、オリオン座が光っていた。
じっと見ていると、保健室で泣いていた彼の姿が、なぜか思い返された。
最初から、まちがっていたんだ。わたしは、空気でいるべきだった。今までの人生、ずっとそうしてきたのに。あのとき、彼の涙に少しでも介入したいと思ったところが、もう、大きなまちがいだった。
オリオン座はぐにゃりと歪み、わたしはきつく、目を閉じた。