空気人間
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夕暮れ時の保健室で頬に一線を描いたそれは、黄昏に反射して、まるで星屑のようだった。
急に開いた扉と、ピロン、という音とともに自分に向けられたビデオカメラに、彼は濡れた頬のまま、わけがわからない、といった顔で呆然としていた。
放課後の保健室は、外にかけられた「外出中」のプレートのせいか、ベッドにさえ誰もおらず、わたしたち2人だけだった。
「……泣き顔、綺麗だね」
カメラを向けながら発したわたしの言葉に、中島くんは我に返ったように制服の袖口でごしごしと頬を拭い、画面ごしに不信感をはっきりと浮かべた目線をこちらに向けた。
『……勝手に撮られるの、ものすごく不快なんだけど』
その口調には警戒と嫌悪の響きが含まれていて、わたしは自分の血流が一段早くなるのを感じた。レンズから顔を背けようとする彼の前に回り込む。
「突然ごめんね。わたし、隣のクラスの〇〇っていいます。好きな教科は美術、嫌いな教科は化学。好きな食べ物は、この時期だとコンビニのおでんとか」
『聞いてないんだけどそんなこと』
苛立ったように遮る彼を無視して、私は続ける。
「部活は映画部。っていってもまぁ、幽霊部員がほとんどの、たいして活動もしてない弱小部で、見かねた学校側から今年何か作品をコンクールに出品しないとついに廃部にすると言われてしまったんだけど」
『いや聞いてないって』
「だからね、中島くんで撮らせてほしいの。ドキュメンタリー映画」
『……は?』
形のいい眉をひそめた彼に、わたしは繰り返す。
「我が映画部を守るために、中島くんで、ドキュメンタリー映画を撮らせてくれないかな」
『断る』
話にならない、といったように彼は頭を振った。
『映画なんて、別にドキュメンタリーなんかじゃなくて適当に脚本書いて適当に撮ればいいじゃん。だいたい、オレになんのメリットもないし、映画部に対してなんの義理もない。オレじゃなくてもいいでしょ。だから、そういうのは申し訳ないけど別の人に頼んで』
「中島くんじゃなきゃダメな理由はあるよ」
片手でビデオカメラを回しながら、ブレザーのポケットを探る。取り出したスマホで開いた画面を見せると、彼の目は大きく見開かれた。
「保健室で先生にキスするなんて、こんなロマンチックな青春、どう頑張ったって脚本じゃ思いつかないもの」
保健室の中で十数分前に起こっていた出来事を収めた画像は、扉に手をかけ出て行こうとしていた彼の動きを止めるのには十分な効力を発揮した。
『……見てたの』
「先生が保健室を出て行って、置いてかれた中島くんが1人で泣いてるとこまで、全部」
中島くんは大きなため息をつき、最悪だ…とぼそりとつぶやいた。肩を落とす彼がさすがに少しかわいそうになる。
「大丈夫、落ち込まないで。先生の唇を強引に奪ったの、練習したの?ってくらいすごく綺麗で映画のワンシーンみたいだったよ」
『キスの講評とかほんとやめて』
「そのあとぽろぽろ泣いてたのも、男子高校生の涙なんて甲子園でしかみたことないからちょっとドキドキしちゃった」
『いたたまれなさすぎて消えたくなってきた』
心を尽くしてフォローしたつもりなのに、なぜか彼は頭を抱えてしまい、満身創痍といったふうだった。
改めて、わたしは中島くんに向き直る。
「強引な頼みだってわかってる。でも、中島くんのそのきらきらした切ない恋の一部始終を撮らせてほしいの。別に何もしなくていい。もちろん相手が先生だってことは伏せるし、ただカメラの前でコイバナしてくれればこっちでいろいろ編集してまとめるから。ね、おねがいっ!」
『今のを聞いて、たとえ毒薬を飲まされたとしたってやりたくないという思いがより強くなったよ』
地球の二酸化炭素濃度が0.001%上がったんじゃないかと思うくらい深く深くため息をつき、彼は脱力したようにその場にしゃがみこんだ。
橙色に満たされた保健室の中で、小さくまるまった中島くんの影と、上からカメラを回し続けるわたしの影が2つ浮かぶ。
『……たとえば、オレがやらないって言ったら、君はその画像をどうするの』
「そんな言い方、心外だな。別に悪用したりはしないよ。ただ各種SNSを駆使するかなってくらい」
『これ以上ないほど最低な使い方だ……』
彼はその黒髪をくしゃくしゃとかきむしったあと、恨めしそうにわたしを見上げた。黒目がちなその目は必然的にわたしを見上げる形になって、普段の彼が醸し出す排他的な雰囲気とはちがった表情に、すこしだけドキッとする。観念したように、中島くんが立ち上がる。
『わかった………協力する。映画、撮られればいいんだよね』
それであの人を守れるなら、と彼はぽつりとつぶやいた。
中島健人は猫のような人だ、と思っていた。
たとえるなら、高貴なロシアンブルー。ほっそりとした優雅な体つきとしなやかな筋肉に、深い理知と気品をたたえた目。校内で見かけたとき彼が纏っていた雰囲気は、ロシアンブルーの艶めくグレーの毛並みによく似ていた。
1、2度、理科の合同授業で彼のクラスと一緒に授業を受けたことがある。背中を丸めておとなしそうな友人たちと談笑する彼は、教室ではあまり目立つタイプではないようだった。
でもそれは、彼が意図的にそう見せているような気がした。だって時折顔を上げて教卓を見るとき、前髪から覗くその目は、獰猛さと品格が共存した光をたずさえたネコ科のそれだったから。
だけど、そのイメージは間違っていたのかもしれない。彼を撮り始めてからそう思うようになった。
撮影は、放課後の理科室でおこなうことにした。
『わざわざここで撮らなくたって』
「放課後誰も来ないのって、理科室か屋上くらいしかないもの。それともまた保健室で撮る?」
『……遠慮しとく』
正体のわからないホルマリン漬けが棚に並んでいたり、途方もない宇宙の図が書かれたポスターが貼ってあったり、ゆるりと重たい時間が沈殿しているような理科室が本当は少し苦手だった。
それでも理科の合同授業のときの彼が強く印象に残っていたから、というのは別に彼に言う必要のないことだった。
隣を向くと、中島くんは恍とした表情で人体模型を指先でなぞっていて、わたしは少し、いやかなり、ドン引きした。おそるおそる、人体模型が好きなの?と尋ねたら、骨の形とか模範的で美しいと思う、と彼は神妙な顔をして答えた。この人はたぶん変態なんだな、とわたしは思った。理科の先生が1週間に一度磨いているという人体模型は、埃をかぶることなく滑らかな艶を放っていた。
『……撮るなら撮るって言ってからにしてよ』
無言で録画ボタンを押したわたしを、中島くんが画面越しに軽く睨む。
「ごめん、絵になるなって、思わず」
彼は人体模型の骨格を模範的で美しいと言ったけど、中島くん自身の骨格も恵まれたものであるということは、その骨をむき出しにしなくても窺い知れた。長い足と高い位置にある腰骨、そして整った輪郭を描く横顔。
教室の隅で影を潜めていたそれらは、1対1で向き合うと、こちらを圧倒するくらいの美しさを遺憾なく発揮した。
そしてわたしは、一枚の皮を隔てたその中身に思いを馳せる。この美しい体躯は、その内にどんな色の恋心を宿しているのだろう。
「……中島くんは、いつから「白衣の女神」のことが好きなの?」
それは、生徒の中での彼女の呼び名だった。「女神」なんてあだ名にしては大層なものに聞こえるかもしれないが、実際、その白衣の純白さに劣ることのない彼女の美しさは、校外でも有名だった。
カメラを向けて投げた問いに、彼はしばらく躊躇うような素振りを見せてから口を開いた。
『…今年の春頃。オレ、朝起きるの得意じゃなくて、遅刻しそうだったんだ。全速力で走って、抜け道を使って校舎の裏に入ったんだけど、柵を飛び越えるときに張り出した枝で頰を引っ掻いた。深く切ったわけじゃないし、気にせずそのまま下駄箱まで走ろうとしたら、うしろから呼び止められた。それが先生だった』
ちょうどこの教室の前あたり、と彼は窓の外を指差した。
校内の敷地と道路を分ける網状の柵は、理科室前あたりだけ、ところどころヘコんでいて、足がかけやすいようになっていた。きっと代々の遅刻魔たちが使うたびへこみ続けてきたのだろう。柵の近くにある桜の木は、寒さでもう葉を落としていたけれど、一瞬、春の満開の花が見えた気がした。
『先生が、絆創膏をくれたんだ。「無地のもの切らしてて、もらい物でこんなのしかないけどごめんね」って言って、変なキャラクターの絆創膏を貼ってくれた』
ひとつ息をついて彼は続けた。
『………絆創膏をもらっただけだったんだ。だけど恋に落ちるにはそれで十分だった。変な絆創膏、照れたように笑う顔、白くて細い指先、少しだけ触れた体温。全部が全部、破壊級だった。あれは、ほんとうに、女神としか言いようがないものだった』
まるで、祈りを捧げるような口調に、彼がその春から、夏も、秋も、そして今も、ただひたすら先生のことを想い続けているのだとわかった。
同時に、彼の口から語られた記憶に小さく動揺する。わたしにも思い当たる節があったからだ。そうだ、あれはたしかに春だった。ユルさがウリの少しブサイクなそのキャラクターがわたしは好きで、グッズも集めていたから、よく覚えている。廊下ですれ違ったとき、無駄のない彼の顔の上にぽつんと置かれたそれは、彼のもつ空気と正反対の存在感を主張して、そのアンバランスさが妙になまめかしいと思ったんだ。
ピロン、と停止ボタンを押しカメラを下ろすと、彼は遠くを見ていた目線を、わたしに戻した。
『おわり?』
「とりあえず第1回目はね。もう暗くなってきたし」
ふーん、と中島くんは拍子抜けしたような声で頷き、撮れた映像を確認しているわたしを頬杖をつきながら見つめた。
『君は?』
「は?」
『君はなにがきっかけで映画が好きになったの?映画部入るくらいなら映画好きなんでしょ?』
オレだけいろいろ話すの不公平だもん、とくるりと目を回しながら言った。
どう答えようか逡巡する。
「……姉が映画が好きで、その影響で」
『ふーん。お姉さんっ子なんだ?』
「……そうなのかな。よくわからない」
自分のことについていろいろ聞かれるのは慣れてない。居心地の悪さをごまかすようにそそくさとカメラをカバンにしまう。
「じゃあね、中島くん。また明日、よろしく」
彼はまだ何か聞きたそうな顔をしていたけれど、それ以上追及してくることはせず、諦めたようにこくりと頷いた。
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