④
駅の待ち合わせに行くのに変に緊張してしまったのは、確実に変わった空気感と、「デート」の言葉と、だけど1番は昨日の夜に菊池風磨がラインで言ってきた「おねがい」のせいだ。
5分前に着くように家を出たはずなのに、自然と歩みが遅くなり、待ち合わせの駅の改札を出る頃には、気づけば時間ぴったりになっていた。
壁に寄りかかり、スマホをいじっている菊池風磨を遠目で見つけて、朝から何度目になるかわからないため息が出た。
「おはよぉ……………」
菊池風磨の目の前に立ち、声をかけると、すっと顔を上げた彼は、目線を上から下へ、そしてまた上へ何度か往復させ、黙り込んだ。
「………なんとか言ってよ」
恥ずかしさといたたまれなさで、強気なセリフに反して語気は弱々しくなった。
下駄の鼻緒を足指でぎゅっと握る。
菊池風磨の“おねがい”。
それは、浴衣を着てきてほしい、というものだった。
祭りや花火大会に行くわけでもない。真昼間にふつうに街へ行くだけなのに浴衣は嫌だ、と散々ごねたけれど、彼のごね方はわたし以上だった。
どうやら祭りのとき、わたしが浴衣を着て行かなかったことを相当根に持っていたらしい。
最終的に、「祭り以外で浴衣着たらダメなんて法律あんのかよ!」なんてむちゃくちゃなキレ方をされ、結局お互い浴衣で来よう、とまんまと約束を取り付けられた。
着ると決まってしまえば、なんだかんだやっぱり少しでもマシに見られたい、というのはなけなしの女心だ。
早めに起きた朝はドタバタと用意に忙しく、親にまで「なんでそんな格好してるの?」と聞かれ、「そんなのこっちが知りたい!」と若干やつあたりをしながら家を出た。
駅前は人通りが多く、だけど他に浴衣を着ている人なんてもちろんいなくて、必然的に目立ってしまっている。
「ねえ」
ともう一度菊池風磨に声をかけると、
「…あ、わり。……じゃ行こっか」
と、壁にもたれた体を起こした。
浴衣への感想は無しですか、といじけた気持ちを知ってか知らずか、彼はするっとわたしの手をとり、歩きだす。
意外と柔らかい菊池風磨の手のひら。
握られた手が、小指1本だけ繋いでいたあのときと決定的に関係性が変化したことを物語っていて、それだけで胸がぎゅっとして、浴衣へのノーコメントでそこそこヘコんだ気持ちはどこかへ押し流されてしまった。
わたしの手を引くように少し前を歩く菊池風磨が一度、そしてもう一度こちらをちらりと振り返り、前を向いたまま口を開く。
『…………ビビった』
「え?」
なんのことを言っているのか見当がつかず聞き返すと、菊池風磨は急にくるりと振り返り、繋いだ手をぐいっと引き寄せた。
『…………死ぬほど綺麗』
耳に寄せられた顔は、言葉だけ残すとすぐに離れ、また歩き始める。
「…菊池風磨も、ゆかた、にあうね」
と、なんとか押し出した言葉に
『どーも』
と答えた彼は、表情は見えなかったけど、その頰には少し朱が差していて、なんだか喉の奥がぎゅっとして、これがいとしいという感情なんだ、と初めて知った。
ウィンドウショッピングをして、昼ごはんを食べ、映画を見た。
映画館を出たあと、どこかカフェにでも入ろう、と目についた看板のところに入る。
建物入口から階段を下って入ったそのカフェは、カフェというより喫茶店という方が似つかわしく、木製の椅子とテーブル、上品な色調の壁紙、店内では静かにクラシックが流れていて、およそ高校生が、しかも浴衣姿で気軽に入るような雰囲気の場所ではなかった。
どうする、と目を合わせていると、「ご注文は何になさいますか?」とカウンターの向こう側から声をかけられ、2人して神妙な顔でしずしずとメニューを覗き込んだ。
羅列されたカタカナの名前は、ココアやアイスティーなどの基本的なものの他は聞いたことがない名前ばかりで、しかもどの飲み物もいつも友だちと行くようなカフェより少しずつ値段が高い。
「ねえ、知らない名前ばっかなんだけど何頼むの」
『オレもわかんない。なんでこんなカタカナばっかなん』
こそこそと話すわたしたちを店員のお姉さんがにっこりと見つめ、わたしたちもお茶を濁すようににっこりと微笑み返す。
「とりあえずなんか頼まなきゃ。アイスティーとか無難なのいっておく?」
『いや、アイスティーでこの値段は高すぎだろ。どうせ高いなら知らないやつ頼んで勉強代ってことにしよ』
そう言うやいなや、店員の方に向き直った彼は
『ウインナーコーヒーひとつ』
とメニューを指差した。
焦ったわたしも
「じゃあわたしはこのディアボロひとつ」
と後につづく。
高校生の身分には少しお財布に痛い会計を終え、「札をお持ちになって席でお待ちください」と促される。
「ていうか、ウインナーコーヒーってよくチャレンジしたよね」
『一番名前的にやばそうだったから頼んだ。だってウインナーって何?あの肉のウインナーしか知らないんだけど』
「わたしもそれしか知らない」
店内はお喋りできる雰囲気でもなくて、席に着いてもまたこそこそと小声で話す。
『てかそっちのディアボロこそ何?1ミリも想像つかない』
「わかんない、とりあえず目についたやつ頼んだから」
『いやそっちのがある意味チャレンジャーやん』
おまたせしました、と頭上から降ってきた声に、寄せていた頭をパッと離し、背筋を伸ばした。
「こちら、ウインナーコーヒーとディアボロです」
菊池風磨の目の前には、ホイップがたくさん乗ったカップが、わたしの目の前には緑色の液体が入ったグラスが置かれる。
店員が去り、2人とも自分の目の前の飲み物を見つめ、無言で一口飲んだ。
「………いかがですか?」
『…………とりあえず、ウインナーは入ってなかった』
「うん、よかった」
『てか、コーヒーの上にホイップクリームのせた感じ?』
「ほう」
『そちらは?』
「……なんか、ぱっと見メロンソーダなんだけど、味は違くて、よくわからないシロップを炭酸で割った感じ?」
『結局よくわかんないままか』
「まあ、そうだね」
『うん』
「うん」
目を合わせ、数秒の無言。
そして同時に吹き出した。
わたしたちの笑い声は静かな雰囲気の店内で大きく響き渡り、慌てて声を抑えてまた2人でくつくつと笑う。
「てか菊池風磨の案外ふつー!拍子抜け!コーヒーにクリーム乗ってるだけって!」
『そっちこそ謎が謎のままだから!結局何飲んでんだか自分でわかってねーし!』
お互いツボにハマってしまい、だけど大きな声は出せず、ひーひー言いながら口元を押さえて笑う。
ひとしきり笑ったあと、喉が渇いて息切れしながらストローに口づける。
んえ、と思わず苦い顔をしてしまったのを見て、菊池風磨が「口直しする?」とこちらのグラスを引き寄せ、かわりに彼のカップを渡してくれる。
『苦手な味だった?』
「ん、ちょっとね」
菊池風磨の頼んだウインナーコーヒーは、甘さとにがさがちょうどよくて美味しかった。
「ありがと」
とカップを返そうとすると、
『ん、いいよ。そっち飲みな。オレこの味嫌いじゃないし』
と手を押し戻された。
あまりにさらりとした優しさに、嬉しさと同時に、まだその扱いに慣れない自分がいてむずがゆくなる。
「……あまい」
『ん?クリーム?』
「それもそうだけど、菊池風磨が」
『オレ?』
「前より、なんか、ずっと甘い」
赤面した顔を隠すため、俯いてぼそぼそ話すわたしを、菊池風磨はきょとんとした目で見る。
『当たり前じゃん?友だちと彼女じゃ、そりゃ扱い違うっしょ』
まあ、最初話したときから“好きな子”だったから、友だちっていうわけでもなかったけど。
そう付け足し、またストローをくわえる。
黙りこくったわたしを見て、ん?と軽く首を傾げた彼に、なんでもないというふうに首を振って俯く。
自分がどれだけの言葉を放っているかわかっているんだろうか、この人は。
こっちがどれだけそのひとことに舞い上がってしまうのか。
一言一句ぜんぶを覚えていたくて、どれだけその言葉たちを頭の中で繰り返しているのか。
ただ一緒にいるだけで、こんなにも心振り回される。
『あ、甘いついでに、ずっと気になってたこと一つ言ってもい?』
おもむろに口を開いた菊池風磨に、顔を上げる。
「なに?」
『オレの名前』
「菊池風磨の名前?」
『それだよ、それ。いつまでフルネーム呼び?』
少し拗ねたように口をとがらせる。
頬杖をつきこちらを流し見る彼の目は、今ここで呼ぶことを要求していた。
「……菊池?」
『お前それわかってやってんだろ。下の名前だよ、ふ!う!ま!』
ほれ言ってみ、と促され、ぐうっと声がつまる。
今までさんざん名前は呼んできて、単に“菊池”を取るだけなのに、いざやってと言われるととんでもなく恥ずかしい。
だけど彼の視線はわたしを掴んで離さず、適当にごまかして逃げることを許さない。
観念して、お腹の奥に力を込める。
「……………………ふうま」
数秒かかってやっと小さく発したその声は、だけどどうやらきちんと彼に届いたらしい。
菊池風磨は、……風磨は、照れたように笑い、よくできましたとでもいうように、またわしゃわしゃとわたしの頭を撫でた。