③
『………ここにいたんだ』
振り向くと、菊池風磨が立っていた。
『突然いなくなんないで。マジビビるから。ラインくらいちゃんと見ろ』
「……ごめん」
珍しく怒っているような顔だった。
菊池風磨の髪は少し乱れていて、額は汗で濡れていた。
「……もしかして、走って探してくれてた?」
菊池風磨はそれには答えず、ドサっと隣に腰を下ろす。
「…ほんとにごめん」
『もういいよ、無事だったし』
菊池風磨が髪をかきあげる。
夜なのに、やっぱり彼の茶髪はキラキラと光を反射していた。
そうだこれ、と菊池風磨ががさごそと何かを取り出す。
『ん。焼きそば』
「あ、ありがとう」
焼きそばと割り箸を受け取り、パックを開くと、ふんわりとソースの美味しそうな香りがした。
「……焼きそばっていえばさ、うちの母さんが焼きそば大好きで」
『へえ』
焼きそばを頬張りながら話し始めたわたしを、同じく焼きそばを頬張りながら菊池風磨が見つめる。
「で、結婚する前、父さんが料理を全くしない人で、袋焼きそばすら作れなかったのね。それ知って母さんが「焼きそば作れない人と結婚できない!」って言ったらしくて、それで父さん死ぬほど頑張って焼きそば作れるようになったんだって」
『母ちゃんつえーな』
「ね。自分の親のエピソードながら地味にツボっちゃって、焼きそば食べるたびそれ思い出すんだよね」
『素敵な夫婦じゃん』
菊池風磨がフッと優しく笑うから、なぜかわたしが照れてしまった。
「菊池風磨は?いつか結婚したいって思う?」
『オレ?うーん。どうだろ』
少し黙り込んだ後、ぽつ、と菊池風磨が口を開く。
『オレさ、あれが苦手なんだよ。結婚式の誓いの言葉』
「“汝、これを永遠に愛することを誓いますか?”」
『そうそれ』
彼は焼きそばを脇に置き、自分の膝の上で頬杖をついた。
わたしもつられて、箸を置く。
『過去の永遠っていうのは、わりと確固たるものとして自分の中で信じてて。過去って変わらないから、だからこそ思い返したときそれを良かったなと思えるように今をめちゃくちゃに楽しんでやろうって思うし、実際そうしてるし』
うん、と自分の言葉を確かめるように彼は頷く。
『けど、未来の永遠ってわかんねーじゃん。たとえ今どんなに努力したって、もしかしたら明日事故にあうかもしれない。突然隕石が降ってきて地球がなくなる可能性だってゼロじゃない。そう考えると、未来に対しての誓いって結構脆いものなんじゃない?っていう。誓いの言葉って結構無責任な言葉な気がして、だから、なんか苦手』
まあ、これはオレの主観だし実際結婚は素敵なことだと思うけどね、と菊池風磨は弁解するように付け足した。
なんだか意外だった。
彼の横顔をまじまじと見つめる。
こんなにも「今」を大切に、真摯に向き合ってる人だったんだ。
教室の中心でワイワイと騒いでいる彼は、惰性で今をやり過ごそうとしているわたしよりも、よっぽどしっかりとしていた。
「……菊池風磨は誠実だね」
『そうなの?』
「そうだよ」
頬杖をついたままこちらを見てフッと笑い
『そっか』
と呟いた。
2人の間をぬるい夜風がすり抜ける。
未来の永遠ってわかんねーじゃん。
彼の言葉がずっと頭の中で響いていた。
たしかにそうだと思う…けれど。
その声が、表情が、どうしようもなく寂しそうに見えた気がして。
何か、何か言わなきゃ、と急いた気持ちが言葉を押し出させた。
「でも、そう考えると、誓いの言葉を言えるって、神様の前で一緒に堂々と不誠実を働けるふたりって、それはもう最強のふたりなのかもしれないね」
焦って口をついた言葉は、やっぱり形になってしまえばあまりにも幼稚な気がした。
2人の間に流れた沈黙に後悔が押し寄せ、ごめん忘れて、と顔を上げようとしたとき、頭にずしっと重さを感じた。
そのまま、わしゃわしゃと頭をかき乱される。
頭の上に乗ってるのが菊池風磨の手だとわかるまで、数秒かかった。
「え?!なに?!?!」
ようやく自分の身に起こってることを把握して隣を向くと、今度は両手でわしゃわしゃと頭を撫で回される。
のしっとした手の重さで、頭が上げられない。
「ほんとなに?!?!?!」
『やーほんと、そういうとこだよね。そういうとこ、ほんと』
「はあ?!」
『いやーやっぱいいよね』
ずっと撫でられていて、下を向いたまま彼の表情が見えないけど、笑われていることはわかる。
抗議しても全く効き目はなく、いい子いい子ー、と言いながら頭を撫で続けるので、諦めて途中からは為すがままにされていた。
ようやく手が止まり、手を乗っけられたまま頭を上げると、菊池風磨の顔が思いのほか近くにあって驚く。
「なに…………」
『告白したいって思ってたとこ』
放たれた言葉の意味を理解する前に、唇に柔らかな感触がした。
菊池風磨の匂いだ。
キスされてるらしい、という認識がやっと追いつき、おずおずと目を閉じる。
長いと思ってたけどたぶん一瞬で、唇が離れ、そしてそのまま、コツン、とおでこをくっつけられる。
前髪越しに感じる彼の熱が、そのままわたしの頬に集まっている気がした。
『ねえ、好きだよ』
少しかすれた、低い声。
その声は、おでこを伝って頭から流れ込んでくるようで、脳が溶けてしまう気がした。
3センチ先にある伏せられた目は濡れたような黒い睫毛でふちどられていて、思わず見とれてしまう。
『返事』
ぐりぐりとおでこを押し付けて、拗ねたような声を出す。
『好き?』
こちらをまっすぐと見つめる目。
飲み込まれるように、菊池風磨しか見えない。
ああもう。
10年後、20年後、彼が思い出すのがわたしじゃなくても。
彼だから。
こんなに「今」を愛しそうに抱きしめる彼だから。
「………すき」
なんかもう全部関係なかった。
だってわたしは、どうしても、17歳の今、菊池風磨が欲しかった。