②
あの黄昏時。
夏の夕空はなんだか不思議な色をしていて、刻々と深くなるその色に君を重ねていたことは、結局最後まで言えなかった。
これは君の色だ、と思ったその行為の名前が今ならわかる。
あれは、きっと。
あの大事故から3日。
停止していた思考が徐々に動きはじめて、これからすべきことを冷静に考えられるようになった。
言い返すつもりが、完全にあっちのペースに乗せられてしまっていた。
だけど、なんとか致命傷は避けられた。たぶん。
過ぎたことはしょうがない。事故は事故として処理して、大事なのはこれ以上菊池風磨に近づかないことだ。
今度もし、あの青春大爆発に巻き込まれたら、きっとひとたまりもない。
だから、もう絶対に絶対に絶対に菊池風磨とは関わらないようにしよう。
そう固く決意した、のに。
「なぜわたしはここにいるの………?」
目の前には麺を湯切りしているおじさん。
割り箸や胡椒が並んだカウンター。
『放課後メシ食おってオレが誘ったから』
隣には、菊池風磨。
「了承した覚えはないんだけど……」
『でも来てんじゃん』
「それは……っ!」
あんなにまだ人が残ってる教室で、上位カーストの人間が下位カーストの人間を誘ってたら、こちら側に拒否権なんてあるわけない!という反論は、自分で言うにはあまりに情けなさすぎたのでこらえた。
それでも、あの時なけなしのプライドと危機察知能力で
「放課後は委員会があるから…」
と咄嗟のでまかせで断ったのに
「え、委員会、今日はないって言ってたよね?」
と佳代がニヤニヤしながら口を挟んできたから、思わず盛大に舌打ちして佳代を睨んでしまった。
こわぁ〜〜い、と言いつつも、まったく怯むことなくニヤニヤを止めない佳代に、
『え〜〜嘘つかれたってことぉ〜〜?傷ついたぁ〜〜〜〜』
と菊池風磨まで悪ノリしはじめたから、慌てて
「お願い静かにして!これ以上目立たないで!」
と懇願し、今に至る。
「あんなんほぼ強制じゃん…」
とぼそぼそ呟くわたしを無視して、隣の菊池風磨はなんだか愉快そうだった。
『や、でもさぁほんと、』
と菊池風磨は頬杖をつきながらこちらを見上げ、口角を上げる。
『イヤイヤ言いながらもついて来るの、愛すべきツンデレっつーか、そういうとこ可愛いっつーか』
「やめてください帰っていいですか?」
立ち上がってカバンを手に取るわたしの腕を、菊池風磨が「いやいやいや!」と慌てたように掴む。
『結構勇気出して誘ったんだからそーゆーのやめて、目が本気で怖え』
ほら座って座って、と椅子に再び戻される。
「からかわないで」
可愛いとか勇気出して誘ったとか、言い慣れてる台詞なんだろうとわかっているのに、いちいちそこに反応してしまう自分に嫌気がさす。
隣を睨んだわたしと菊池風磨の目線がわずかに合い、すぐそらされた。
『ぜんぶ本気だけど』
それまでのちゃらけた表情の合間に一瞬見えた気がした真顔と聞こえた言葉に、どう反応すればいいかわからなくて、言葉に詰まる。
わずかな沈黙。
ちょうどそのとき、「お待たせしました」の声とともに丼が2人の目の前に置かれた。
菊池風磨の顔がほころぶ。
『ここの味噌ラーメン、まじでうまいから食ってみ?』
ほら、と割り箸とレンゲを手渡される。
美味しい美味しいって、最初からハードル上げまくってるけど……。
だけど、半信半疑で食べたそれは、口に入れた瞬間、味噌とバターの香りがふんわり広がって、あっさりとしながらもコクのあるスープの優しい味が舌を包んだ。
麺も歯ごたえがあってもっちりしていて、たしかに今まで食べたどのラーメンよりも美味しかった。
『どうよ』
湯気越しに得意そうに笑う顔が憎らしかったけど。
「……人生で1番美味しいラーメン」
そう言ったら
『だろ!オレこのラーメン1番好きなんだよ!』
と、くしゃっと幼く笑ったりなんかするから、なんだかわたしはもうどうしていいか分からなくなってしまって、無言でずるずるラーメンをすすり続けた。
ラーメンを食べ終わったあと、すぐ帰ろうとしたわたしに「もーちょい付き合って」と言って、菊池風磨が向かったのはゲームセンターだった。
「なんでゲーセン?」
『いーからはやく』
ずんずんとわたしの腕を掴んで歩く。
菊池風磨が立ち止まったのは、マリオカートの前だった。
『勝負しよ』
奥二重の目がわたしを挑発的に見つめる。
「は?」
『マリカーで対戦して、オレが勝ったら、言うこと1つ聞いて』
「言うこと?」
『またこうして遊んでよ』
冗談やめて、と言いかけた言葉は、菊池風磨の不遜なのに真剣だとはっきりわかる表情を見て、引っ込んでしまった。
「……わたしが勝ったら?」
『そっちの言うことなんでも1つ聞く。もう関わるなって言うなら関わんねーし』
どう?とかしげた首と一緒に、綺麗な茶髪がさらりと揺れる。
「…いいよ。その勝負、うけた」
ニヤッと笑って、菊池風磨は座席に乗り込んだ。
スタートダッシュは同時だった。
菊池風磨のヨッシーを、わたしのキノピオが追う。
前方から容赦なく放たれる攻撃アイテムをすんでのところで避ける。
わたしも負けじとアイテムを投げつける。
コーナーの内側ギリギリを走るあたり、菊池風磨がかなりこのゲームを得意としていることがわかった。
ほぼ同じタイミングで残り1周に入る。
菊池風磨がアイテムを取る。
無敵のスター。
隣を走っていたわたしは慌てて距離を取る。
近づいたら吹っ飛ばされる。
ああ、もうこのコーナーを曲がったらゴール。
だけど。
菊池風磨のスターの効力が切れたその一瞬。
コーナーを走りながら、アイテムボタンを押す。
ヒット。
ゴール直前でクラッシュした菊池風磨のカート。
その横をキノピオが抜き去った。
『おま……マジであれはねーよ………』
勝負が終わり、ゲーセン前の外階段に2人して座る。
さっきからずっと、菊池風磨はこうべを垂れてぶつくさ呟いている。
「わたし、ゲーム買ってもらえない家庭で、ゲームやるならゲーセン行くしかなかったせいで、小さいころから通い続けてゲーセンにあるものはだいたい極めまくったから。でもまあ、菊池風磨も上手かったよ」
『慰めんのやめて。余計傷つくから…』
秀才がこんなゲーム得意とか思わねーじゃん、とかぐだぐだ言いながら悔しがっている姿は、いつも余裕そうに構えているところしか見たことがなかったから、なんだか新鮮で面白かった。
気づけば外はもう暗くなりはじめていて、今日にしがみついているような夕日が、空気を紫に染めている。
菊池風磨に学校から連れ出されたのはほんの数時間前なのに、もう何日も前のことのように感じられた。
夏の夕焼けは、空間や時間、全てのものの境界線を曖昧にぼやかしているみたいだった。
『…………で、何にすんの』
ぼそりと菊池風磨が呟く。
「え?」
『言うこと1つなんでも聞くやつ』
「あぁ……ほんとになんでもいいの?」
『男に二言はねぇよ』
覚悟を決めたような顔をして菊池風磨は前を向く。
むすっとした顔が夕日にきらきら照らされる。
横から見るその顔は、まっすぐ伸びたまつ毛も、ニキビひとつない白い肌も、不服そうに下がった唇も、教室の後ろから眺めていたときとは全然違う人のもののように見えた。
もうすぐ、日が沈む。
「髪の毛を、さわらせて」
『………は?』
「なんでもひとつ言うこと聞いてくれるんでしょ?」
『そうだけど、そんなんでいーの?』
「うん、そんなんがいーの」
ふーん、と腑に落ちなさそうな顔をしつつも、菊池風磨はこちらに向き直った。
『どーぞ』
差し出された頭に、おそるおそる手を伸ばす。
さらさらして癖ひとつない髪の毛。
そっと掬って指を通す。
ブリーチをしているはずなのに、まったく痛んでいないような綺麗な茶髪。
さらさら。きらきら。
最初から、この茶髪は好きだった。
『ねえ』
下からくぐもった声が聞こえる。
『……やっぱ、またあそぼーよ』
「…………ん」
俯いている菊池風磨の顔は見えなくて、どんな表情をしているかわからなかった。
わたしは、髪をなで続ける。
さらさら。きらきら。
菊池風磨は黙ってわたしになでられ続けていて、俯いたままだったけど、そのおかげでわたしも顔を見られずにすんだ。
きっと、今顔を上げられたら、恥ずかしさで死んでしまう。
日はもう沈んでしまって、夕日のせいにもできないから。
さらさら。きらきら。
好きなのはもう茶髪だけじゃないことを、わたしはいいかげん、認めなければいけなかった。