第29章
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王妃が立ち去ったあと、その場を動けずじっと立ち尽くすエレン。
ぐっと握りしめていた両手が力を無くしたようにゆっくりと解く。
張り詰めていた呼吸を吸ってはぁ…、と深く吐いた。
そうすると一気に虚脱感が押し寄せる。いきなり王妃様がいらっしゃるなんて予想だにしなかったものだから余計に緊張した。
すると王妃と入れ違いで再びこの軟禁状態の部屋に来客を知らせるノックの音。
次にここを訪れる者がいるとすれば今度こそアンドラゴラス王だろうか。ナルサス様やダリューン様はきっといまごろ部屋で待機を余儀なくされているはずだからここへ来ることは不可能だろう。
王妃様がここへ少し来る前に差し入れと称して食事が入ったカゴを受け取った。見張りの兵士から送り主はエラムという少年からだと聞いてもしやと思いそのカゴの底を捲ると“ある物”が一緒に隠し入れてくれていた。恐らくナルサス様とダリューン様もその段取りで事を進めていることだろう。そう思うと孤独感が薄れ、不思議と力が込み上げてくる。
一人ではない、ということに。
再びノックされたドアに意識を戻す。
『どうぞ。』と一言告げ、その先にいる人物に警戒する。
しかしその扉の向こうで待っていたのはアンドラゴラス王ではなかった。
『――ぁ…。キシュワード、様…。』
「…。」
見慣れた顔にほっと緊張が解れていく。
少し目尻を下げ、心配そうにこちらを見つめるキシュワード。
閲兵の間で最後に見た姿と服装ががらり変貌を遂げる。
その壮麗なローブを纏った瞬間、彼女の内側に眠っていた気品や、芯の強さ、そして穢れのない美しさが、強烈な光となって溢れ出しているよう。それは誰かが教えた作法でもなく、彼女の魂が元々持っていた高貴さなのか、その姿はさながら王女殿下と呼ぶに相応しい気品が漂う。
ずっと隠されていた本来の姿が、ついにベールを脱いだかのような感動が沸き起こる。
それまで彼女を「普通の娘」として見ていた人々は、その威厳に満ちた姿に言葉を失い、自然と頭を垂れてしまうことだろう。彼女の纏う空気が、周囲に「彼女こそが王女である」と認めざるを得ないのだ。
さらっと衣が擦れる音にはっと意識が呼び戻される。
エレンにとっても信頼できる人の登場に一本の糸で張り詰めていた緊張がぷつんと切れ、ふらっと身体が足元から崩れていく。
慌てて駆け寄ったキシュワードが両腕で崩れ落ちる身体を受け止めた。
「だ、大丈夫かっ。」
『申し訳、ございません。キシュワード様のお顔を見たらほっとして。安心したら力が抜けて…。』
立つこともままならない身体は自然と彼に預ける形になってしまった。
安心した、と言われそれはこちらのセリフだと言わんばかりにキシュワードはそのまま「失礼する。」とだけいってエレンの背に腕を回し包み込むようにぐっと抱きしめた。
その時、流れていた周囲の雑音がふっと消え、 腕が回された瞬間、まず脳が処理するのは物理的な近さ。
抱きしめられているとわかると、自分の世界は急激に狭まり相手との濃密な空間へと変貌する。再びエレンに訪れた“緊張”は、単なる恐怖や不安とは異なる、甘美さと戸惑いといった様々な感情が入り混じった複雑な心の中。
大きな身体に包みこまれるようにすっぽりと収まるエレンは密着する身体に抱きしめられているとわかると一気に顔が赤くなる。
『あ、え…、えぇー…!』
ドクン、と胸が跳ね、自分の心臓の音が耳元まで届くような。
キシュワードの体温が服越しに伝わり、自分の身体に移っていくような錯覚がする。
驚くエレンを他所に彼女から伝わる心臓の音に生きていることを実感する。温かい身体と驚くその声にエレンが生きてここにいるのだとようやく安堵できたキシュワード。
『(震えて、いる…。)』
背中に回された腕がかすかに震えている気がした。
きっと私が陛下にあのようなことを言ったことで心配を掛けたのだろう。そう察したとき、少しだけ緊張が緩み、すこしの申し訳なさが込み上げる。
それでも抱きしめられている時間は数秒、あるいは数分か。まだ解けない緊張の中にいるエレンにとっては、永遠にも似た濃密な空間が続いている。
腕が解かれ、物理的な距離が再び生まれようやく面と向き合った瞬間に訪れる静かなる余韻は抱きしめられていた時間が終わりを迎えても、心の緊張はすぐには解けず、むしろ形を変えてエレンの深く心に刻まれる。
腕を解き、さらに触れていた両手までも離れると少しの喪失感を感じた。突然の出来事に心ここにあらずな状態のエレンを見下ろしていたキシュワードは一歩後ろに下がって、なんと膝を突いた。
「御身に触れましたこと、どうかお赦しください。」
『え、あの…。なにを、仰っているのですか。』
聞き間違いだろうか。
キシュワード様が自分に対して敬語を使い話している。
私はそんなことをされる立場の人間ではないのに…。
「不肖ながらこのキシュワード、王女殿下に忠誠を誓わせていただきます。」
『キシュワード様…。』
膝を突き、顔を伏せる彼は今いったいどのような気持ちでいるのだろうか。抱きしめられて緊張したかと思えば今度は彼の急変した態度に不安が押し寄せてくる。
あぁ、結局はこうなる運命なのだろうか。
彼はナルサス様やダリューン様と違い、代々王家に尽くす忠実な武人。いつまでも私をだたの騎士として接し続けてはくれないのだろう。
むしろこうなることを望んでいたはず。
彼はここでけじめをつけるつもりなのだ。そう悟った瞬間、一気に心が冷えていく気がした。
顔をうつむかせるキシュワードの頬にそっと手を伸ばす。
触れられて手に顔を上げると視線が合ったその表情はいまにも泣き出してしまいそうでキシュワードは胸が傷んだ。
『…だから、嫌だったのです。あなたが、そのような態度に変わってしまわれるから…。』
キシュワードの視線がまるで私じゃない私を見ているようで。
エレンとして築き上げてきた信頼と時間、思い出がすべて水に流れていってしまう気がして。
それが無性に悲しくて、淋しくて。
出来ることなら、叶うことなら。ずっとエレンのままでいたかった。そう呼び続けて、欲しかった…。
しかしこれが本来の二人の姿だ。そう受け止めてもらうしかない。
『アルスラーン殿下は…。』
「数刻前にご出立なさいました。」
『そう、ですか…。結局お一人で行かせてしまった。お側にいると約束したのに。』
「…。」
これにはキシュワードも思うところがあるようで。すこしだけ申し訳なさそうに顔を歪ませた。
「恐れながらお聞きしたいことがございます殿下。」
『…。』
殿下と呼ばれてなぜか『はい。』と返事はしたくなかった。
ただ聞きたいことがあると言われ耳はそちらに集中する。
「なぜアンドラゴラス王にあのようなことを申し上げられたのでございますか。一歩間違えれば本当に命を落とすところだったのですぞ。」
あの場で殺されてもおかしくはない状況だった。
謀反の疑いをかけられ、さらには陛下に向かって口を慎めなどと言う始末。相手がエレンではなく他の者ならば即刻首を斬られていたことだろう。
これにはキシュワードも寿命が縮む思いだった。
『キシュワード様も私が何も思っていないとお考えですか?十七年前のことで陛下に対して、受けた理不尽も怒りも。何も感じていないと?』
「それは…。」
静かなる怒りをキシュワードは感じ取った。
アルスラーン殿下の為、奴隷を解放する為。
そのためならばどんな理不尽も耐え陛下の前で膝を突くとたしかに言った。しかしそれで抱えた義憤が消えることはない。むしろ塵のように降り積もり続けているのだ。
『陛下は私をいつでも殺せるように仕向けたかった。ただそれに乗っただけです。陛下は私がここを去れば命令に背いたことと謀反の疑いや先程の非礼な発言を理由に命を奪えるようにしたいのです。ですがそれは私にとっても好都合というもの。やがてアルスラーン殿下とアンドラゴラス王は袂を分かつ日が来る。そのときのために私は堂々と殿下に尽くす味方でありたいのです。』
「アルフィーネ殿下…。」
『ご安心ください。そう簡単に死んでやるつもりはございません。』
ふうわり。と笑ってみせたエレン。以前とは違うその晴れやかな表情はいままで溜め込んでいた怒りを陛下にぶつけたことで多少の憂さ晴らしにはなったゆえに。
その気持ちは信じて良さそうだと、キシュワードは感じた。
エレンがそっと差し出した手をキシュワードは一度だけ顔と交互に見た後、その手を取った。乗せられた手をゆっくりと持ち上げれば自然と立ち上がる姿勢に。再び見下ろす形でエレンを見つめるキシュワード。
繋がった手のひらをぎゅっと少しだけ力を込めた。
『キシュワード様、あなたにお願いがございます。』
「は。なんなりと。」
『ヴァフリーズ様がおられない今、陛下からの重圧はあなたの肩に重くのしかかることでしょう。それでも、このペシャワール城にいるすべての兵士のためにどうかパルス軍をお導きくださいませ。』
「――!殿下、それはどういう…っ。まさか本当にこの城を出ていかれるおつもりですかっ。」
エレンからの頼みに動揺するキシュワード。まるでその言い方が今にもここから出ていってしまうように聞こえたのでつい耳を疑った。
キシュワードの問いにエレンはただ穏やかに笑うだけ。
その瞳は覚悟を決めた色を宿していた。
それでは駄目だとキシュワードの本能が告げる。
しかしエレンの瞳を視線が交わったとき、再びあの感覚が蘇る。
あぁ、またこの感じ。エレンの瞳に灯ったあの光が、今も彼の胸の中で消えずに、熱く、激しく、脈打ち続けている。
それは胸の奥を熱く焦がす高揚感。
アンドラゴラス王とは違う、他者を跪かせる威圧感ともいえる雰囲気。今の彼女は無意識なのだろうけれど、自然とそれが漏れ出している。
圧倒されている自身の意識を取り戻し、彼女を引き止める。
「それはなりませぬ。城外へ出るなど危険すぎます。どうかこの城に留まりください。殿下の身はかならずこのキシュワードがお守りいたしますゆえ。」
『ありがとうございます、キシュワード様。ですが私をかばう必要はございません。私を庇護すれば陛下からの信頼を失うことにもなります。私は大丈夫ですから。』
「殿下…。」
『キシュワード様はご自身のやるべきことを果たしてくださいまし。私もそういたします。…あなたとの朝の稽古が出来なくなるのはすこし名残惜しいですが…。』
この城に来てからというもの、父の代わりにずっと相手をしてくれていたキシュワード。それがもう当たり前になっていた。出来なくなるということに少しばかりの寂しさを感じてしまう。
それ以前に彼の傍を離れるということに不安な気持ちが顔を出す。
『(結局私はこの人に頼りっぱなしだったのね…。)』
言い方を変えると依存、とも言えるだろうか。
この城に来てからダリューン様ともナルサス様ともより、キシュワード様と過ごす時間の方が多く時を過ごした気がする。
それだけ安心出来る方なのだろう。変に気を張らなくていい。
自分を良く見せようと見繕わなくてもいい。泣いても笑っても受け止めてくれる。
『(この方を愛すれば、私は幸せになれる。…そんな気がする。)』
いままで見たことのないエレンの慈愛に満ちた笑顔。
不意に見せたその表情に思わずどきっとする。未だに繋がれている手をエレンは両手で包み込むようにしてそっと目を閉じた。
『パルスの神々よ。英霊たちよ。どうか祝福を授けたまえかし。』
暖かい春のような風がキシュワードを包み込んだ。
不思議と無意識に溜まっていた身体の疲労が消えた。
胸の奥がじわっと小さな火が灯ったような、暖かい感覚。
「いまのは…。」
『キシュワード様をお守りくださるよう祈りを捧げました。キシュワード様。生きてください。どれだけ怪我を負われても私が全力で治します。だから、どうか生きてください。』
「エレン…。」
ついアルフィーネではなくエレンと呼んだキシュワード。
エレンのまっすぐなその気持ちが素直に嬉しい。
「約束する。」と小さく返事をした彼を満足気に頷くとエレンはゆっくりと部屋の唯一ある窓際に近寄った。
ただその動作に窓際からの景色を眺めるためだとキシュワードは油断していた。
窓からの眺めを見た後、エレンはキシュワードを振り返る。
『それではキシュワード様。――またお会いしましょう。』
「――は。」
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