第29章
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自分の世界から「音」が消えた――。
アルスラーンが空を見上げると、太陽はすでに遠い西の彼方の地平線へと消えようとしている。その輝きを失った空はゆっくりと帷を下ろし、次第に静寂の訪れを知らせていた。
馬に跨った彼の背後には固く閉ざされた堅牢なペシャワールの城門。
何人たりとも見送ることはならぬ、という国王の命により彼は一人淋しくペシャワールを去ることに。
最初にこの場所に訪れたときは誰もが歓迎して迎えてくれたというのに、立ち去る彼に一人の見送りも許されないこの状況を多くの者が歯がゆい思いを抱えた。
「……さあ、行こう。」
その呟きは、誰に届くこともなく風にさらわれた。 これが、彼にとっての新たな始まりだ。 助けも、救いも、予言も。終わりの見えない旅の始まり。ただ絶望だけを道連れにした、果てしない旅路の第一歩だった。
しかし彼は後ろを振り向くことはなく。
覚悟を決めて馬の腹を蹴って勢い良く駆け出した――。
城内ではアンドラゴラス陛下に追従するキシュワードが陛下から自慢の鷹はどこへ行ったかと尋ねられ、さてどこへやらと受け流していた頃、随従を却下されたダリューンとナルサスは同じ部屋で待機を命じられていた。
友人の虎をも射殺してしまいそうな表情に「怖っ。」と引くナルサスはさて、これからどうしたものか、と策を考える。
ドアの向こうで聞き耳を立てている兵士の存在に気づいているので、堂々と話すことは出来ない。
ナルサスは落ち着かないダリューンに向かって「心配ない。」と言いながらその視線を机の上に向けた。
「(指文字⋯?)」
“俺たちが命令に背いて陣を離脱することが国王の狙いだ。”
「別に敵国へ赴かれるわけではないのだ。南方の海岸地帯ならルシタニアの手もまだそれほど伸びてきてはいないと聞くしな。」
さらにナルサスは指文字で字を綴り続けた。
“アンドラゴラス王は俺たちが国王より王太子殿下に忠誠を尽くそうとしていることも知っている。”
「殿下に手出しする者はおるまい。」
“強引に引き離せば、俺たちは王令に背いて陣を離脱する⋯。”
陣を離脱した後の事を綴るナルサスの表情が無になる。
“そうすれば反逆者として俺たちを殺すことが出来る。エレンも然り、な⋯。”
ナルサスの手元を見てダリューンは言葉を失った。
友人が解いてみせたアンドラゴラス王の思惑に信じられないという表情を見せる。
“なぜアンドラゴラス王は今になってエレンにあのようなことをいったのだろうか。十七年前の件で叔父に助けるよう指示してきながら…。”
“利用価値があるから生かしておいた。…その価値が無くなった今、生かしておいても自身にとって障害でしかない。”
そうなれば行き着く結末は決まってくる。
命を、奪うのみ。
「(俺たちやエレンを殿下に従わせるより、抹殺してしまった方がよいと⋯!?そこまで忌まれているとは⋯。もはや国王にとってアルスラーン殿下は潜在的な敵なのか⋯っ。)」
アンドラゴラス王は己の治世のためにダリューンやナルサスを殺し、さらにエレンをも利用しようとしている⋯。
ぐっと拳を強く握るダリューンにナルサスは己の考えを机上に書いてみせた。
“焦るな。心配ない。⋯エラムとアルフリードに事情を説明してある。あの子らは聡い。自分のやるべきことはわかっているはずだ。”
それを読み終えたダリューンに目線を配り、さらに部屋の扉に向かって少し大きめの声で怪しまれぬよう会話を続けた。
「まずは俺たちにできることをするだけだ。国王陛下がお戻りになったとあれば新たに参陣する者も増えるだろから。」
ナルサスの思惑に察したのかダリューンは落ち着きを取り戻し、ようやく席に着く。
「そうだな。アルスラーン殿下の【奴隷制度廃止令】に反発する諸侯も多かっただろうから。そういった者たちが陛下の名のもとに今こそ集まれば我が軍は更に強大になる。忙しくなるぞナルサス。」
“殿下の元へ奔るとなれば⋯、最悪の場合味方であるパルス軍の陣を斬り破らねばならぬかもしれぬ。――どうだ?”
ナルサスの問いかけに答えるようにダリューンも机の上に文字を書いて己の考えを示す。
“任せろ。どんな重囲であろうと斬り破ってみせる。ただ、俺たちが力ずくで離脱すれば王太子殿下と国王陛下との間が気まずいことになるのでは?”
“もう充分気まずくなっているさ。もはや破局は避けられぬ。引きのばして運命の罠を待つだけというのも、ばかばかしい。”
“たしかに。”
“この状況、かえってエレンには都合がよいだろう。堂々とアルスラーン殿下に尽くすことができるのだから。王太子殿下と国王陛下の関係が続けば、アルスラーン殿下の上におられるアンドラゴラス陛下に尽くすことを余儀なくされるのだから。”
“ナルサスにはさらに考えがあるようだな。”
“まぁな。これは本人からも言われたことだ。王女としての自分がアルスラーン殿下に必要ならばどんなことでもいい。うまく使って役立てて欲しい、と。”
「…。」
エレンの遠い先を予測した考えについ感嘆の声が溢れた。
自分の知る彼女がまさかそこまで先にことを考えて行動を起こしていたことにダリューンは驚嘆した。
沈黙が続かぬよう、用意されている茶菓子のナツメに手をつけてうまいな、なんて会話をしながら重要な話は机の上で続けられている。
時折、ファランギースの話やギーヴの話を交えつつ彼らの行く末の内容の話も筆談で交わす二人。
結論、“連絡を取る必要はない。”とナルサスは断言した。
その潔さにいかにナルサスがあの二人を信頼しているかを目の当たりにする。なにより、無理にでも連絡を取ろうとすると返って彼らに国王の目が向くことで危険にさらす可能性がある。よって彼らの身の振り方は彼らに任す、というのがナルサスの考えである。
おそらく二人とも放っておいてもアルスラーン殿下の身辺で再会出来るだろう、と⋯。
「ファランギース殿やギーヴをけっこう高く評価しているのだなナルサスは。」
「まぁな。」
残す問題は、エレンだ。
アンドラゴラス陛下があれだけの大勢の前で彼女の正体をバラしたのだ。もう人違いなんで言い逃れは出来ない。
エラムの情報によるとエレンはペシャワール城の一番高い塔の上の一室に軟禁状態だそうだ。見張りをする兵士に頼み込んで朝からなにも食事を取れていないと理由をつけ、とあるアイテムを食事のカゴの底に仕込んだのだが果たして彼女は気づいてくれるかどうか。
心配されているとは露知らず。そんなエレンの元へ数刻前、予想しなかった人物が訪れる。
エレンは来客した人物の前で膝をついてみせる。
『このような場所にどのような御でしょうか。⋯“王妃様”。』
「…。」
王妃・タハミーネだ。
長きに渡るエクバターナでの軟禁生活で心労に床に臥せっているとアンドラゴラス王は言っていた。なのでこの塔に幽閉されてから最初に訪れたのがまさかのタハミーネ王妃様とは想像もつかなかった。
アンドラゴラス王のことだ。この場所には誰も近づけぬよう命令していることだろうと思っていた。だがそれも王妃様からすればその命を下した者と同等の権威を持つ御人。王が近づくことを許さなくとも王妃にとってそれは関係ないこと。
口を開かない王妃を前に頭の中であれこれ思考を巡らせるが彼女がここへ訪れた理由など皆目検討もつかない。視線を床に向けたまま目線を合わせぬようひたすら王妃様が口を開くのをただただじっと待つ。
「…そなたが、」
『…。』
ようやく言葉を発したその声は王宮で耳にしたときと同じ感情の無くしたものだけれど少しだけ疲れを感じた。
いくつになっても変わらぬその美貌ゆえルシタニア王を虜にさせたと聞いたので待遇良く生活を送っていただろうが、それでも彼女の心労はさぞ辛かっただろうと察する。
たった一人、敵国の手に落ちた王宮内でひたすら時が過ぎるのをただ待つばかりの生活を半年も過ごしたのだから。
そんな御方がいったいなんの用なのだろうか。
「もしやそなたが、“わたくし”の子ではないかと思いこうして参ったのです。」
『――っ。それは…、』
思わず俯いていた視線を上げた。
王妃のこんな顔を見たことがない。まるでそうであって欲しいと願う、すがるような表情。果たしてそんな顔をアルスラーン殿下に向けたことがあっただろうか。
今となってはもう遅いことだろうけれど。
なぜそんな目で私を見るのだろうか…。
違う。私はあなたの子ではない。
そう言いたいがそれ以前に、聞き捨てならない言葉がある。
『私が“王妃様の子”ではないかと仰られますがそれではまるでアルスラーン殿下が“王妃様の子”ではない、というように聞こえますが…。』
「…。えぇ、そうです。“あれ”はわたくしの子ではありません。わたくしが産んだ子は陛下がどこかへ隠してしまったのです。」
あぁ、一番聞きたくはなかった言葉だ。
そうかも知れない。といつも思っていた。アンドラゴラス王ともタハミーネ王妃とも似つかない容姿と穏やかな性格はアルスラーン殿下がお二人の血を引いていないと証拠付けているようなもの。
まさかそれを私が本人よりも先に聞いてしまうとは。
頭の中でアルスラーン殿下の顔が浮かび、心の中で謝罪した。
『それで王妃様は私がその子ではないかと思われたのですね…。』
「…。」
藁をもすがる思いなのだろう。上掛けの隙間から見えた握りしめた手が震えている。滅多に表情を崩すことのない御方がこんな人間味のある顔をするのだな、とどこか安心めいたものを感じた。
『恐れながら申し上げます王妃様。私は王妃様の子ではございません。私の父は先王オスロエス、母は先王妃ファナ。それは紛れもない事実でございます。そして年齢からしても私ではないことは明白。私は今年で二十歳になります。タハミーネ王妃様がお産みになられたのでございましたら、今年で十五歳になられるはずです。』
「…そう、ですね…。」
辛い事実を突きつけるようだが慰めるために嘘をついてもさらにこの方を深く傷つけるだけだ。自分があなたの子かもしれないなどという余計な希望を持たせず真実を話すほうが余程彼女のためでもある。
やはり違った、という事実から彼女はまぶたを閉じ深い溜息を吐いた。激しい脱力感。諦めにも近い期待外れに落胆する。
そんな王妃を可哀想に思う反面、巻き込まれたアルスラーン殿下を不憫に思う。本当の父と母と引き離され据えられた王太子の役。
本当の子ではないと常に冷たく引き離す王妃の態度は何度もやきもきさせられた。
アルスラーン殿下のことを思うとさきほどのようにかっとなる感情が再び沸き起こり、気づけば言葉を発してしまっていた。
『王妃様の本当のお子のこと、お気の毒ではございますが。それでもあてがわれた血の繋がらない子だとしても、もう少しアルスラーン殿下に少し寄り添ってさし上げられなかったのですか?演じるだけの関係だとしても。あの御方は少しでも良い、母親であるあなたから認められたかった。…ただそれだけなのです。』
「そなたの言う通りです。わかってはいます。あの子に罪はない。わたくしが産んだ子ではないというだけ。きっとアルスラーンはわたくしを憎んでいるでしょうね。」
恨まれて当然だ、と王妃は言う。エレンはぐっと両手を握りしめた。
違う。そうではない。アルスラーン殿下はそんな御方ではない。
母である王妃を恨むような方ではない。なぜそれがわからないのだろう。歯がゆくて仕方ない。
でもここでこれ以上王妃に罵倒するようなこと言っても無駄だ。
所詮私にとって他人事。これはアンドラゴラス王とタハミーネ王妃、そしてアルスラーン殿下の問題。私がもっと殿下に優しくして欲しいなどど言ったところでもはやそれは演技でしかないだろう。
そうとわかればそんな心のない態度に意味はない。
でもこれだけは言いたい…。
『王妃様はアルスラーン殿下のことをなにもわかっておられないのですね。』
「…。」
エレンの容赦ない言葉に少しだけ泣きそうな表情を見せたかと思うと、一瞬でいつもの無表情な王妃に戻ってしまう。そしてそのまま踵を返すとなにも話すことなく部屋を立ち去っていったのだった――。
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