5.言葉なき執着の足音
――そして、二人の距離が決定的に変わる瞬間は、ある日突然、予期せぬ形で訪れた。
一流の薬師であるヒイロは、現代日本に暮らす人々や、影の社会からの依頼を受けて様々な薬を調合している。その中には、強力な魔力や特殊な霊素を含む素材を扱う、危険な調薬の作業も含まれていた。
その日、ヒイロは館の地下にある調薬室で、揮発性の極めて高い特殊な魔力触媒を精製していた。
ヴァンはいつものように、部屋の隅の椅子に腰掛け、特に手伝う風でもなく、ただ静かに彼女の作業を眺めていた。手出しはしない。それがお互いにとって一番居心地の良い距離感だからだ。
だが、ほんの一瞬の出来事だった。
ヒイロが触媒をフラスコへ移し替えようとしたその瞬間、想定以上の魔力の共鳴が起こり、古い硝子瓶が激しい音を立てて爆ぜた。
現代の物理的な硝子の破片と、暴走した魔力の衝撃波が、無防備なヒイロの顔めがけて容赦なく降り注ぐ。
その光景が視界に入った瞬間。
「ヒイロ――!」
静寂を切り裂くような鋭い叫び声が、狭い調薬室に響き渡った。
それは、500年以上をクールに、そして冷静に生きてきた吸血鬼の男から放たれたとは到底思えない、剥き出しの焦燥が混じった声だった。
叫ぶと同時に、ヴァンの身体は思考よりも先に動いていた。虚弱体質であるはずの自らの限界を忘れ、地面を蹴ってヒイロの前へと割り込む。衣服が引き裂かれる鈍い音が響き、飛び散った鋭い硝子の破片がヴァンの背中や肩口を深く切り裂いた。
ヒイロは即座に指先を払い、暴走した魔力の残滓を瞬時に霧散させる。
静まり返った室内で、破片が床に落ちる高い音と、ヴァンの荒い呼吸の音だけが響いた。
「……ヴァン」
ヒイロがすぐに声をかけようとしたが、ヴァンは自らの肩を押さえ、信じられないものを見るような目で、呆然と床を見つめていた。
(私は今、なんと叫んだ……?)
いつもなら、決してそんな取り乱し方はしない。そもそも、他人のために自らの身を投げ出すなど、これまでの彼の生き方からは有り得ないことだった。契約に縛られているからではない。義務でも、命令でもない。
ただ、彼女が傷つくかもしれないという一瞬の恐怖が、彼の理性を完全に叩き壊していた。
そして何より、彼自身が驚いていたのは。
これまで一度も口にしたことのなかった、彼女のその名を、誰よりも切実に、無意識のうちに叫んでいたという事実だった。
ヴァンは押し黙ったまま、黄金の瞳を大きく揺らしてヒイロを見つめる。
その視線に、チカフィールはいつものように「大袈裟ね」とからかうことも、見透かしたように微笑むこともしなかった。
ただ、彼の傷口と、酷く動揺しているその瞳を、静かに事実として見つめ返す。
「……私の名前、そうやって呼ぶのね」
ヒイロはそれだけを低く、落ち着いた声で言うと、作業台から自作の薬瓶を取り出し、ヴァンの手元にそっと握らせた。
「自室に戻りましょう。手当てをしなさい」
「……ああ」
ヴァンはまだ、自分の胸の奥で激しく警鐘を鳴らす、無自覚だったはずの強い感情の正体に戸惑っていた。
握らされた薬瓶の冷たさだけが、自分の心がもう、あの桜色の魔女なしでは成り立たないところまで囚われていることを、静かに告げているようだった。
一流の薬師であるヒイロは、現代日本に暮らす人々や、影の社会からの依頼を受けて様々な薬を調合している。その中には、強力な魔力や特殊な霊素を含む素材を扱う、危険な調薬の作業も含まれていた。
その日、ヒイロは館の地下にある調薬室で、揮発性の極めて高い特殊な魔力触媒を精製していた。
ヴァンはいつものように、部屋の隅の椅子に腰掛け、特に手伝う風でもなく、ただ静かに彼女の作業を眺めていた。手出しはしない。それがお互いにとって一番居心地の良い距離感だからだ。
だが、ほんの一瞬の出来事だった。
ヒイロが触媒をフラスコへ移し替えようとしたその瞬間、想定以上の魔力の共鳴が起こり、古い硝子瓶が激しい音を立てて爆ぜた。
現代の物理的な硝子の破片と、暴走した魔力の衝撃波が、無防備なヒイロの顔めがけて容赦なく降り注ぐ。
その光景が視界に入った瞬間。
「ヒイロ――!」
静寂を切り裂くような鋭い叫び声が、狭い調薬室に響き渡った。
それは、500年以上をクールに、そして冷静に生きてきた吸血鬼の男から放たれたとは到底思えない、剥き出しの焦燥が混じった声だった。
叫ぶと同時に、ヴァンの身体は思考よりも先に動いていた。虚弱体質であるはずの自らの限界を忘れ、地面を蹴ってヒイロの前へと割り込む。衣服が引き裂かれる鈍い音が響き、飛び散った鋭い硝子の破片がヴァンの背中や肩口を深く切り裂いた。
ヒイロは即座に指先を払い、暴走した魔力の残滓を瞬時に霧散させる。
静まり返った室内で、破片が床に落ちる高い音と、ヴァンの荒い呼吸の音だけが響いた。
「……ヴァン」
ヒイロがすぐに声をかけようとしたが、ヴァンは自らの肩を押さえ、信じられないものを見るような目で、呆然と床を見つめていた。
(私は今、なんと叫んだ……?)
いつもなら、決してそんな取り乱し方はしない。そもそも、他人のために自らの身を投げ出すなど、これまでの彼の生き方からは有り得ないことだった。契約に縛られているからではない。義務でも、命令でもない。
ただ、彼女が傷つくかもしれないという一瞬の恐怖が、彼の理性を完全に叩き壊していた。
そして何より、彼自身が驚いていたのは。
これまで一度も口にしたことのなかった、彼女のその名を、誰よりも切実に、無意識のうちに叫んでいたという事実だった。
ヴァンは押し黙ったまま、黄金の瞳を大きく揺らしてヒイロを見つめる。
その視線に、チカフィールはいつものように「大袈裟ね」とからかうことも、見透かしたように微笑むこともしなかった。
ただ、彼の傷口と、酷く動揺しているその瞳を、静かに事実として見つめ返す。
「……私の名前、そうやって呼ぶのね」
ヒイロはそれだけを低く、落ち着いた声で言うと、作業台から自作の薬瓶を取り出し、ヴァンの手元にそっと握らせた。
「自室に戻りましょう。手当てをしなさい」
「……ああ」
ヴァンはまだ、自分の胸の奥で激しく警鐘を鳴らす、無自覚だったはずの強い感情の正体に戸惑っていた。
握らされた薬瓶の冷たさだけが、自分の心がもう、あの桜色の魔女なしでは成り立たないところまで囚われていることを、静かに告げているようだった。
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